2006年11月29日

ブラブラ

今日はみんなに重大な発表がある。
今までずっと隠してきたが、もういつまでも誤魔化しきれるものじゃない。
いつかはバレてしまうなら、いっそ自分からバラしてしまおう。損なようだが、オレの性格はそういう風に出来ている。

ネットで商売を始めてからかれこれ6年半。店舗を構えて5年半。その間、ずっと書いてきたこの日記。
「時雨日記」「本日は閉店なり」「泣いてチンピラ」「ほんまにうち寂しかったんよ」「妄言の自動販売機」と名を変えて(一部嘘)、雨の日も風の日も売り上げゼロの日も書いてきた。
北に詐欺師の古本屋があると聞けば行って「若林区の本屋を見習え」といい、南に自分本位の古本屋があれば行って「若林区の本屋の爪の垢を煎じて飲め」といい、東に潰れそうな古本屋があれば行って「若林区の本屋に在庫を只で譲れ」といい、西に死にそうな掃苔文庫があれば「早く楽になれ」といいながら書き続けてきたこの日記。
想い出を語ればきりがなく、何を書いたかの一つも思い出せず、本当は何も書いてないんじゃないかと感慨に浸ることもシバシバ。素晴しい言葉の羅列は若者のソウルを揺さぶり、我も我もと古本屋になる流れに棹差したと言っても過言ではないと思う。あらぬ噂で業界をかき乱し、札幌のじゃんくまうすを廃業に追い込み、近所のブックアイランドを撤退させ、仙台にプロ野球チームを呼び、北朝鮮に核を持たせるまでに増長したこの日記。
自殺者の心の拠り所となり、カーセックス愛好家に喝采を浴び、長渕剛の新曲の元ネタにもなりえず、若い女どもから総スカンを食ってきたという自負がある。
オレは間違いなくこの日記を愛していた。
しかし、オレときたら・・・。
オレときたら、この日記を書くとき、常に続きを読む
posted by 肉王 at 00:00| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月27日

個性人間ソチンダー

学校出てから十余年
今じゃタクシーの運転手
むやみやたらにぶっ飛ばし
書いた始末書五万枚

学校出てから十余年
今じゃヤクザの大幹部
切ったはったの明け暮れで(←ここがうろ覚え)
呼んだパトカー五万台

クレイジーキャッツの名曲の一つに「五万節」という歌がある。オリジナルは歌詞に問題ありとして、当時放送禁止になってしまったが、急遽歌詞を差し替えて再発表されたようである。
上記の一節は、その問題となった一節だ。うろ覚えなので正確ではないが、おおよそこういう内容だった。
他にも、「じいさんはチュウキで これまたシビレてる」と歌って、やはり放送禁止になった「シビレ節」もあり、オレとしては後者の方が好きだ。ちなみにチュウキとは中風のことで間違いは無いと思うのだが、耳では「チュウキ」と聞こえていても、実際は「中風」と歌っていたかもしれない(チュウヒとも聞こえた)。
オレが持っているCDでは、「五万節」の方は歌詞が差し替えられた後のものだし、「シビレ節」のほうはその部分だけ歌が消されている。

なぜこんな話から始まるのかというと、近頃何故か「言葉狩り」的なことを言う人たちが目立つから。多分テレビの影響だと思うのだが、「キチガイ」と言っちゃいけないとか「カタワ」と言っちゃいけないとか「低脳」と言っちゃいけないとか、やけにうるさい。
これらの言葉を使っちゃいけない理由など本来はあるはずが無いのだが、テレビや出版物が自主規制しているせいで、一般的にも使ってはいけないような風潮を生み出している。
もしかすると、核議論をしてはいけない、なんて馬鹿な発想も、このあたりが根底にあるのではないと疑ってしまう。議論をすることは、問題その物の存在を認めることになるから、議論してはいけない。その内、同じ理由で、いじめも議論してはいけない、なんてことにもなりそうだ。
核問題もいじめ問題も脇においておくとして、人を表現するためにある「キチガイ」「カタワ」「低脳」などは、所謂「良い言葉」ではないにせよ、あってもしかるべき言葉であると思う。第一そうでないと、他人様がオレを表現する言葉がなくなってしまうだろう。
よく、欧米の影響で「身体のハンディキャップは個性と考えろ」と言う人がいる。そりゃあ、いいアイディアだと一瞬思うが、いやまてよ、そんなのは只のおタメごかしだ。
「まあ!なあに、この粗チン?」
「いやあ、個性だよ」
それで納得してくれるヤツがいるか。
許してくれるヤツがいるか・・・。いるのか・・・。くそう、もう泣くもんか!お天道様に笑われちゃうぜ。
もう何の話だったか・・・?
つまり、個性という名のフィルターで物事の本質を曇らせてしまうのは良くない、という事を言ってみたかったのだ。
別に、身体的特徴を盾にして人間を差別しろというつもりはない。そんなことになったらオレは生きる場所がなくなってしまう。粗チン男だけが集まる「粗チン部落」へ強制的に住民票を移されてしまう。
ただ、訳の分からないルールやズレたモラル意識で言うべきことも言えなくなるのは問題だ。何でもかんでも個性と括られて、本当はキチガイなのにキチガイと呼んでもらえない悲しさを味わうのは嫌だ。
ハンディキャップのある人間は、現在の社会ではどうしても不利だ。それはずっと昔から変わっていない。
それを乗り越えるのは、並大抵の努力ではない。いくら本人が平気な顔をしていても、大変なのだ。なのに、周囲の無理解でダメの烙印を押されることが多い。そりゃあ悔しいが、健常者優先の社会では仕方が無い。しかしそれよりも我慢がならないのは、努力を見ずして個性と括る無神経さであり、それはハンディキャップを直視せず、明らかに斜めから見た物言いであることが丸見えなこと。個性という言葉が、ハンディを負った人間を励ますためでなく、その人を見なかったことにするため、自分を誤魔化すための言い訳にしか聞こえない。
言葉というのは、それ自体で悪と言うことは殆どないと思う。どんなに汚い悪い言葉でも、その言葉が存在することがいけないなんてことはない。キチガイだろうと粗チンだろうと、あっていい言葉だ。
いけないのは、その言葉を理由に人格や実績を否定することだ。
素晴しい絵だけれど、キチガイの描いたものだからダメだとか、素敵な人だけれど粗チンだからロクデナシだとか、そんな理屈で穿った評価をされるのがまずい。
大体において、日頃「人を見かけで判断してはいけない」といっている人の方が個性を口にする人が多いようで、見かけ云々を気にしていない人は個性を語らないようだ。何故かというと、見かけを気にしない人というのは、相手がキチガイであろうと粗チンであろうと大して問題にしていないからだろう。そういう人は、きちんとオレをキチガイとか粗チンと言ってくれるので、信用が出来る。
しかし実際には、キチガイと言われるのは納得できても、粗チンは許せない。見たことあんのかコラー!と言いたい。見したろかオラー!と思う。見て見てもっと見て。ホラホラ、ホゥーラ・・・え?やっぱり粗でしたか?お呼びでない?お呼びでないね?こりゃまた失礼しました。
posted by 肉王 at 22:07| Comment(10) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月24日

それはボクのインノーです

手塚治虫のブラック・ジャックを読んでいると、ストーリー以外の所で感心するところがある。
それは、人体の各部位には実に細かく名前が付いているのだなぁということ。
覚えるのが面倒なのでたいていは流し読みしてしまうけれど、よく見ると少年漫画では必要無いくらいの難しい呼び方があったりする。
例えば、キミたちが今このブログを読みながら握り締めているのは陰茎というモノだとか、今まさにナニか入れようとしているところは本来出口専用で肛門というところだとか。
多くの女性は、陰茎よりもむしろ陰嚢のほうに興味を覚えたりするようだが、その中には睾丸というものが左右に別れて2個入っている。ホラ、手にとって良く見て御覧なさいな。おっと、いけないよ、レィディ!そいつは左右入れ替わったりはしないんだ。む・無茶なことは、や・やめなさい!陰茎を粗末に扱っちゃいけない。それはWiiじゃない!アアアアアーーーーーボカァもうボカァもう!ハイ、そうですそうです。それはもうWiiです。あなたのWiiです!

最近、すぐに集中力が途切れやすくて、すぐにバカな話になってしまうな・・・。
posted by 肉王 at 00:00| Comment(0) | 戯れ言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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