2008年09月23日

知ってガッカリ見てガッカリ

世の中にはたくさんの疑問がありますね。
いや、正確には世の中にあることは全て答えがあるわけだから、疑問があるなら自らの不明を恥じるべきなんだけれど。
でも、肉まんの先っちょが何故ねじれているかとか、目薬は何故一滴ずつしかでないんだとか、いちいち考えていられないことばかりなのも事実で、そういう「いちいち考えない数多のこと」をひっくるめて、オレたちは疑問と言っているわけだ。
かの天才・柳沢教授は「長い熟考の末、疑問が解決した時が最高の幸せだ」と言っていたが、世の中には知って良かったとか、見られて良かったということが多い一方で、知らなきゃ良かったとか、見なきゃ良かったなんてことも同じくらいの割合であるものだ。
例えば、このブログを読んでいる世の中の女性陣は、「こんな素敵なブログを書いている人は、きっと外見も心も美しい人に違いない」と思っているはずだが、実際にはそれほどでもない。あるいは、「安定した職業を捨ててまで古本屋をやっているくらいだから、きっとものすごく思慮深くて美しい人なんだろう」と思う人もいるだろうが、実際にはまったくそんなことは無い。
ただ、一方で「自分で美しいとか言うやつに限って実際にはみっともない外見なものだ」という意見もあろうかと思うが、それについては異論がある。世界中のどんな女性であれ、二者択一を迫られた場合はそこそこの確率でオレを選ぶだろうという自負がある。ただ、与えられる選択肢が「アルマジロかオレか」である場合に限るが。

ずっと以前に、ババヘラアイスというものの存在を教えられたことがある。ババヘラかババベラか忘れてしまったが、とにかくそういう名前だった。ひょっとしたら、ババフェラだったかと思わないでもないが、ババとは婆のことであるらしいから、ババフェラであるはずがないだろうということでオミット(ごく一部のコアなマニアは許されよ)。
秋田地方の道端で、婆さんが売っているアイスらしいのだが、オレは見たことも食ったことも無いし、食いたいとも思わない。第一、小汚い婆さんが手バナかみかみ作っているアイスにいったい何の魅力があるというのだろうか。
というふうに考えると、世の中のことは全て色褪せてしまうから、なるべく建設的に思考を進めるとして、まあ少なくともアイスに痰唾でも吐き掛けないない限りヨシとするとしてみた場合はどうか。
まあ、食えるっちゃあ食えるんで無いの?とオレなどは思ってしまう。根が卑しいから、食い物のことだとかなり制限が甘くなるのが悪い癖なのだ。
ただし、そんな場合でも、「そのアイスは誰がどうやって作ったのか」という疑問は疎かにしたくない。
「ワダスがね、コンビニのフグロさ牛乳どサドウ入れで、グルグル振り回してつぐるんでありますハァ」
などと言われるとがっくり来るだろうけれど、だからと言って「山本氷菓株式会社で仕入れてきております」と言われるのもいやだ。
せめて、「ワダスの家の近所の古川商店で買ってきたアイスば、一回とがして(融かして)、手でこねながらカダヅ(形)をつぐって凍らせでますハァ」くらいの所見が欲しい。
いかに食ったことも見たことも無いとはいえ、我ながらちょっとひどい偏見だとは思うが、関係者の方は勘弁してくれたまえ。ただのたとえ話だから。
ではいったい何のたとえ話かというと、それをさっきから思い出そうとしているのだけれど、ババフェラでちょっと笑ってしまったためにどこかへ吹き飛んでしまったのだ。
まあいいや。
とにかく、世の中には「知ってはみたもののつまらないものだった」ということが多くあるだろう。
「そうか!」の後にくる「がっかり」感というのは、なんともいえない苦い味がするものだ。
その苦い味を婆のアイスで紛らわそうとしないで、真正面から受け止めて考える「そうか!ガッカリの会」というものを作ろうかと思うのだけれど、どうだろうか。なんだか、かの有名な超巨大宗教団体と語感が似ているのが不安だけれど。
posted by 肉王 at 03:14| Comment(10) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月19日

鏑矢がビョウ

世間のあちらこちらで食品の安全だとか危険だとか叫ばれる昨今ですが、どうせ体に入れたものの影響が現れるまでは生きちゃいないだろうオレです。
なんと珍しく、昨日に続いての登場ですよ。

今日はどういうわけか腹を下しています。
なんか悪いものでも食べたか?というと、そんなことは全然無いはずなんですよ。でも、こういう世の中だから、中国産の粉ミルクなどを知らないうちに口にしている可能性もありますね。
まあ、下痢といっても大したことはなくて、うかつに余分な力を入れられない程度だから、なんてことはありませんよ。
それにしてもアレですな。こう、下痢している時のウンコの出かたって面白いですね。激しい音が出る場合と、音も無く流れ出るものとかあります。音が出る場合は症状が軽く、音の出ないパターンだと症状が重いというのが、人類共通の認識だと思うのだけれど、音が出ないなりに語感のようなものを味わえますよね。
今回のオレの場合、液状のものが放射される時に感じた語感は「那須与一」でした。
便座に座ったとたんに、心の準備をする間もなく「ナスノヨイチ」ときた感じ。
分るかなあ?
「あれ?オレ下痢?」と思うや否や、ナスノヨイチ、とくるのさ。
あ、やっぱり下痢してナスノヨイチるんじゃないか。
あナスノヨイチれ?今なんか出たか?
そういう感じ。
これが店にいる時でなくて良かった。
いらっナスノヨイチしゃいナスノヨイチませ。
なんてことになったら大変だからナスノヨイチ。
まあ、汚い話で恐縮だけど。

しかし、なんでまた腹なんか下したんだろうかと考えると、実は一つだけ思い当たる節がある。
この間、水道料金を振り込もうと思って払い込み用紙を持ってコンビニに行ったら、30分前に日付が変わってしまっていて、振込用紙が期限切れになってしまった。こうなると、次回の督促状を待つか、わざわざ水道局まで払いに行くか、古い用紙を持って銀行に行くかの三択になる。オレとしては、銀行へ行くのも面倒だし、水道局へ行くのは負け犬っぽくてイヤなので、督促をじっと待って、そっと振込みに行くのが好ましい。そういうわけで、まだ水道代を払っていないのだ。
つまり、この水道料金滞納に対して、水道局がオレの水道に毒を入れたんじゃなかろうかと思うのだ。まったくもって恐ろしいことだ。
みんなも水道料滞納に気をつけろ。

ところで、話はがらりと変わるけれど、一週間ほど前から店内のどこかにコオロギが迷い込んでいる。
最初のうちは元気に鳴きまくっていたヤツだったけれど、3日前から突然元気が無くなって来た。店内にはヤツの餌になるようなものが無いから(オレの餌さえないことがほとんどだ)当然といえば当然。
とはいえコオロギの餌などわざわざカネを出して買うようなもんじゃない。本音を言うと、とっ捕まえて外へ放り出したいのだけれど、どこにいるのかが分らない。となると手段は一つというわけで、夜陰に乗じて近所の畑からナスを一個失敬してきたのが3日前。それを切り刻んであちらこちらにばら撒いていたら、現金なもので翌日からまた元気に鳴き出した。
それに気をよくして今日のこのブログを書き始めたわけなのだけれど、つい今しがた、ヤツが目の前にビヨヨ〜ンと飛び出してきた。
捕まえて外へ放り出すチャンス到来。ゲハハハと襲い掛かったが、すんでのところで身をかわされた。しかし、ここであったが百年目。絶対に逃がすもんか。いや、逃がすために捕まえるんだから逃がすもんかというのも変な言い方だ。
四つん這いになって追いかけるうちに、カウンターの下でとうとう追い詰め、ぱっと手でふたをして、ようやく捕まえた。
やった!と頭を上げたらカウンターの縁にしたたかに頭を打ち付けた。
そして少しだけナスノヨイチ涙目になった。
posted by 肉王 at 01:45| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月18日

オレに神様が必要無い理由

バイクに乗っている夢をよく見る。スクーターではなく、400CCくらいの大きい奴だ。オレはバイクの免許を持っていないから、そんな大きなバイクには乗ったことなどないのだけれど、感触がやけにリアルなのだ。セルボタンを押す感触や、シートにまたがって両膝でタンク下のフレームを挟む感覚、走り出しでGを受ける感覚など、まるで本当に乗っているかのようだ。
夢の中では何でも可能だから、オレはスイスイと道を走り回るのだ。そして、一番気分の良いカーブの瞬間に目が覚める。その度に、寝ぼけた頭でバイクの免許を取ってみたいと思うのだけれど、すぐに自分の経済状況に思いが至り、ため息を突く羽目となる。

また、大洪水の夢も良く見る。
洪水で、家ごと流されるのだけれど、どういうわけか家がぷかぷかと浮いて、まるで舟のように漂い始める。
これなどは恐らく聖書の影響なのだろうと思うが(ノアの方舟)、そのせいか夢の中での爽快感は余り味わえないことが多い。

バイクにせよ方舟にせよ、現実性はともかくどちらもオレには無縁のものだ。
ただ、ここから想像できるのは、オレにもやはり悩みや不安があるのだろうと言うことだ。
バイクと言うのは、この体一つで、いっそどこかへ行ってしまいたいという願望だろう。確かに現在は、そういう願望をもってしまうような状況ではある。
方舟の方は、自分の人生がこの先どうなるか、どこへ向かうか分らないという不安の現われだろう。

人間はどうにもこうにも悩みや不安が解決できないように出来ているらしい。というのも、悩みというヤツはおおむね「対人間」との摩擦で発生するのがほとんどのようだから、人間社会で生きているうちは、どこまで成功を積み重ねても付いて回るものだろうと思う。あるいは、他者に自分を照らし合わせて、その差異に失望することで発生するとも言えるかもしれない。どちらにせよ、悩みを生む原因はいつだって人間だ。猫やアルマジロを相手に悩んでいる人を見たことがない。
不安についていうと、ほとんどが将来だったり近い未来の己の身の置き所についてのものではないかと思う。
何人かの鬱病経験者の人に、「どんな時にどんな不安を感じるのか」と聞いてみた。
みんなおおよそ漠然としたことばかりで、今ひとつはっきりとしなかったが(だからこその不安なのかもしれないが)、ただ一人だけ、「こういうものだった」とはっきり教えてくれた人がいる。
その人は突然心臓の病気で倒れて、九死に一生を得たのだけれど、それ以後、夜が来る度に「明日生きていられるか」と考えてしまい、寝るのが怖くなったと言った。とにかく怖くて怖くて、もうそれだけで耐えられないほど不安になったらしい。それは今でも変わらずにいるため、心臓はほぼ治ったというのに、精神科から貰う薬が手放せなくなったという。

オレにはどうにもそこまでの不安が想像できなかったので、何日間かに渡って、就寝前に「明日生きていられるか分らん」と強く考えてみた。ところが、思い込みが足りないせいか、あるいは「明日死んでいる自分」に希望を持ってしまうためか、まるで不安になれなかった。
そして、どうやらオレには、悩みや不安は多いほどいいと思っている節があるらしいということに気が付いた。
随分前に、「人間は無理に幸せでなくともよいのだ」ということを書いたような書かなかったような気がするが、みんなは覚えているだろうか。もし覚えているとしたら多分やっぱり書いたのだろうし、覚えていないとしたら、改めてオレはそういう考えの持ち主なのだと認識して欲しい。
この一見殺伐とした考えは、ずっと以前からあったのだけれど、このところの「エホバの証人」たちとのやり取りで、いっそうはっきりとしてきた帰来がある。
あの人たちは、「この世が滅びた後に、神様の楽園に行くことが出来る。そこへ行けば悩みも不安もない。そこへ行けばどんな夢もかなうと言うよ イン ガンダーラ♪」というようなことをのたまって、奉仕という名の布教をするのだ。
オレにしてみれば、悩みも不安もないことが、即「幸せ」につながるのかという疑問がある。するとあの人たちは「当然じゃないですか」と即答する。どうもあの人たちは、どこかで思考を停止させているようなので、一般論的な落着地点でしかモノを語ろうとしない。そのくせ、一般論での解釈に辿り着けないと、すぐに神様を持ち出して話をはぐらかしてしまう。まあ、そういう便利さが神様の特性であり、その特性は思考を停止させた人間にとってはすこぶる都合が良いシステムなのだろうと思う。
それで、オレとしては「自分の悩みや不安」というヤツとはやはり自分自身で見つめなければならないわけだが、どうもこれまでの人生で、一度も悩みや不安を解消したことがないんじゃないかということに(割とすぐに)気が付いてしまった。
ふと振り向くと、オレの背後には過去40年分の悩みと不安がごっそりと山積みになっている。ムムゥ・・・下のほうはもう腐敗している・・・。お!これなんか懐かしい悩みだな。たまには思い出して
悩んでみないとな。ああ、これなんかもう、甘酸っぱいっす、まだ甘酸っぱいっすよ奈保子さん。ハァハァ・・・。
こうしてみると、今のオレはこれらの膨大な悩みや不安で形成されているとしか思えない。これほどの悩みがあったということは、つまりそれだけ人間の中にいたということの証拠だし、不安があるということは、本能的にまだまだ将来に対しての希望を捨てていないということの証明だ。
人の中に生きて、そこはかとなく将来を見ている以上、そこにいるものや先に待つものが神や仏であっては絶対にダメで、あくまでもイロンナ物を背負った自分自身でなくては、例え他者と比較して圧倒的にブザマではあってもここまで生きてきた甲斐がないというものだ。
そう思うと、悩みや不安を理由に死んでしまうのが実は大きな筋違いや勘違いであり、やはり前にも書いたとおり、人間に出来るのは「死に場所を選ぶこと」だけだということに落着した。
もっと言えば、誰が見ても間違いようのないほど自分に似合った死に場所に辿り着くことこそが、人生最高のなんだホラ、なんつーか、アレなんじゃないかと、思うわけだっちゃ。
そして、だからオレには神様が必要ないんだということにも、ようやく気が付いた。
posted by 肉王 at 02:49| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。