2010年04月30日

話にならん!・・・全く・・・。

やあどうも。

旅に出ようと思って鉄道の指定席を予約した。
予約した以上、指定の列車には乗るのだ。乗れば車内販売の冷凍ミカンや土瓶のお茶やいなり寿司弁当などを買うのだ。
ところが席には座らない。終点まで絶対に座らない。図々しいおばちゃんなどが座ろうとすると、コラばばあ!と怒鳴りつけるのだけれど、自分は絶対に座らない。急病人がヨロヨロともたれかかっても許さない。たとえ座席として機能していなくとも、「そこはオレの席である」と主張する。
そういうつもりでtwitterのアカウントを取り、ホラ、左側のカレンダーの下にも何やらを設置した。
でも決してつぶやかないの。
だってつぶやくのなんかイヤだから。
オレはいつだって大声で叫びたいのだね。
「女湯を覗いちゃダメだって法律でもあんのか!?」と。

「意味ねーじゃん」とか「無駄だ」などとは言われたくない。
じゃああれか、お前らはケータイやパソコンの機能をフル活用できているのか。オレは座席に座る以外のことでは列車のサービスを受ける。ただ座らないだけだ。それはケータイやパソコンの全ての機能の一部しか知らずに、ごく一般的な機能だけしか使っていないのとなんら変わりはないのだ。
だからオレはつぶやかないのです。
posted by 肉王 at 23:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自殺列車の終点は「健康」

やあどうも。

自分で自分に丸め込まれているんだよ。
巨大な透明の水槽に濁った水を満面に湛える。それを真正面から見れば反対側が見えないし、高みから望めば奥底が見えないものだ。見えているものは誰もが同じで、肝心なのは、自分がその水を飲めるのかどうかということで、飲んでいない水の感想なんて言うもんじゃないってことだ。
そして高らかに宣言するのだ。かっぱえびせんは美味いのだと。

オレは自分も含めて人間に甘いから、自己矛盾を抱えた人に出会うたびに優しい気持ちになる。ヨシヨシ、と頭を撫でたくなることもシバシバで、特に若い女性の場合は抱きしめたくなることもある。
ただ、多くの人々は自らが自己矛盾を抱えていることに気が付いていないから、そこで発せられる言葉が空回りしたりしてちょっと悲しい。
最近の若者は酒や煙草を毛嫌いするという。
あんなものは健康にとって百害あって一利無しだと。
確かにその通りで、摂取量の多寡に関わらず体には確実にダメージを与えている。
酒や煙草を控えれば長生きが出来るのだ。
その点で若者たちは間違っていない。彼等に将来の希望を聞けば、健康で長生きをすることだと言うから、まさに言行一致、ケチのつけどころがない。
ではなぜ、彼等は年寄りたちを「老害」などといって毛嫌いするのだろうか。
健康で長生きをしている老人たち、言わば未来の自分たちの姿に対して、「老人はさっさと死ね」と言い放つのが、果たして理にかなっているのだろうか。
そこだけを見ると、まるで彼等は自分たちが老人になった暁には若者たちに口汚く罵って欲しいと願っているとしか思えない。
まさか自分たちだけは健康で若いまま100歳まで生きると思ってるのではないだろうかと、少々疑ってしまう。
そういえば、ここ数年、子供たちの間に「人は死んでも生き返る」という怪しい道徳が蔓延していると聞いたが、まさか「若者」と呼ばれる歳になるまでそれを信じているわけでもあるまい。

また、全く不謹慎ながら、自殺者希望者の中にも飲酒喫煙を嫌う人が多いと聞いて、それは自己矛盾を超えてただの馬鹿だから早く死ねばよいものだと思った事がある。自ら死ぬというのであれば、余程のナルシストでない限り生の確率を高める行いをすべきではない。自殺列車の乗客は、常に死ぬ向かう方向へレールを切り替えていかないと、おめおめと長生きをして終には古本屋などになったりしてしまう。そうして、ガソリンスタンドで500円拾って「生きてて良かった」などとうかつなことを言ってしまったりするのだ。

総じて若者は、みっともない生き方をヨシとしないものだ。
「カッコよく」生きたい、というのは、勿論老若男女に関わらず多少なりとも願いとしては持っているものだが、特に若い頃はその思いが強い。
それはそれで、一つの矜持として持っていても当然のことなのだが、残念なことに若いうちは、格好良く生きるための材料が足りない。それは信念であったり経験であったり財力であったりするのだろうが、せいぜいギター一本しか持てない若者がそれらを手にすることは極めて難しい。
昔であれば、ギター一本から始まっても、いずれは北島三郎まで上り詰めることも可能だったのだろうが、現代ではそれも難しい。それどころか小さなミス一発で、スターダム路線はおろか人生から転落することの方が多い。それもこれも団塊の世代の連中が作り上げたシステムなのだが、それは今回はどうでもいい。
若者は現代の極めて不安定なシステムの上で、何もかもの実感を持つことを許されず、明日のことも昨日のことも考える余地がなく、その中でせいぜい健康のことくらいしか実感を持って捉えることが出来ないのだろう。
それは恐らく、それぞれの時代に支えられつつ生きてきた今時の老人たちが経験したことがないほどの苦行であり、その道を渡りきることは全く奇跡的なことなのだろう。
そう考えると、若者が老人たちを侮辱する気持ちも良く分る。
分りやすい言葉にすると、「お前ら楽に歳をとりやがって」ということなのではないだろうか。
自分たちは少し間違うと、あっという間にみっともないことになってしまう。なのに、老人たちは間違いを繰り返して生きてきて、それを恥じていないように見えてしまう(勿論、そうとばかりは言えないのだが)。
そうなると、今の自分の苦労が、まるで老人たちのツケを支払わされているかのように思えてしまう。

かねてより言っている通り、オレは世代間論争と言うヤツが嫌いであるから、結局はどちらの肩を持つかということになるのだけれど、やはり若者の肩を持ちたいと思う。
たった一つのミスで、職も住居も失ってしまう可能性を孕んだ人生を若者たちが歩んでいるなんて、今の老人たちにはどんなに言葉尽くしてもきっと信じてもらえないだろうと思うからだ。
ただ、一方で若者たちにも言いたい。
そういう辛い思いをぐっと飲み込んでニッコリ笑うことも、格好良いってヤツの一つなんだということを知ってもらいたい。

いやもうね、全く、オレは42歳でよかったとつくづく思う。
その思いは、ここ20年間変わらないのだ。
posted by 肉王 at 02:54| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月28日

孤独という名のバスは満員だ

やあどうも。

人ごみの中を一日中歩き回ったのに、誰にも話し掛けられなかった皆さんこんにちは。話し相手は自分自身でおなじみのオレです。このブログは、お前なんか明日までに死んじまえと叫ぶ心無いセレブたちの提供でお送りしています。

昨日、ようやく自家用車のタイヤ交換をしました。天気とガソリンの残量との兼ね合いで、とうとうこの時期になってしまいました。4月17日に雪が降ったりしたため、やや機を逸した感もありつつ、また、やっぱり降ったかという小さな優越感もありつつの微妙な時期ではありました。そしてまた、ガソリンが満タンだとジャッキアップが大変だし、交換後にガソリンスタンドに行って空気を補充する必要があるために、無料サービスを受けるのにガソリンの一滴も入れないのは店側に失礼だろうという小心ぶりが遺憾なく発揮されるため、季節的な判断とガソリン残量の判断との兼ね合いなども、そんな話はどうでもいいんだよバカヤロウ。
いやさ、タイヤ交換の最中に、背中の筋肉を激しく傷めてしまいましたよ。タイヤを持ち上げるどころか、息も絶え絶えになるほどのクリティカルヒットを食らってしまったのです。
運動不足だからとか栄養不足だからという理由はいくらでもつけられるけれど、多分それらは一切関係ないと思う。お前ら馬鹿言ってんじゃないよとこの場を借りて主張する。ついでに、お前ら少しカネ貸せ的なこともこっそり主張してみる。
考えてもみるといい。日頃訓練を重ねてモリモリと体を鍛え、高級黒毛和牛などをムシャムシャとついばんで栄養満点の野球選手たちでさえも、少し動いただけでアッチが痛いコッチが痛いと言っているのだから、体の丈夫さや栄養の補給状態と怪我の頻度は関係ないとしか思えないではないか。
規則正しい生活をしているサラリーマンたちは会社で心に傷を負い、過保護の上に過保護な状態に置かれている老人ホームの老人たちだってちょっと転んだだけで致命傷を負うのだから、一介の古本屋が車のタイヤを持ち上げただけで怪我をしたからといって、なんら罪科を問われるいわれなどないのだ。むしろ怪我をおして連続絶賛営業中記録を継続させていることにもっと高い評価をして、表彰するべきなのだと思う。

まあ、その痛みも一日経ったら大分良くなったので、現金以外の見舞いはご遠慮させてもらいますよ。
posted by 肉王 at 02:07| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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