2010年08月25日

オレよ株を買え!儲かったら頭を冷やせ。

やあどうも。

一ヶ月ぶりですね。
元気でしたか。
執筆が一ヶ月間滞ると株価が暴落するといわれている肉王記ですが、まさに今、株価が下落していますね。
責任を取ってブログでも書いてみっか、と思い立ち、今こうしているのです。

このところはヤケに世間が暑苦しくて、皆さんさぞや汗臭いことでしょう。オレもやや汗臭いですが、多分それよりも加齢臭の方が強いかもしれません。何せオレはこの一ヶ月の間に43回目の誕生日を迎えてしまい、とうとう後戻りできないほどのオジサンになってしまいました。55歳で死ぬと宣言しているので、人生最後の日まであと12年となりました。12年といえば、オギャースと生まれた子供が小学校6年生になるのと同じ時間です。結構長いようでいて、実は丼の中でサイコロが転がるほどの時間でしかありません。
また、先日自動車免許の更新に行ってきたのですが、これまで通り無事故無違反で過ごせば、あと2回しか更新できないということでもあります。更新回数を増やしたければ夜毎に暴走行為を繰り返したり高速道路を逆走したり、仙台駅前のバスターミナルのど真ん中に駐車したりすればいいわけですが、更新回数が増えたところで良い事など何も無いので、まああと二回でいいやと思っています。

無為に生きている、という実感はありますか。
殆どの人は、充実感を満喫しているか、不充足にあえいでいるか、そんなことはあまり考えないで過ごしているのではないでしょうか。
「毎日食うことで精一杯だ」というのは、実は充足しているか、あるいはそれを求める気持ちを保っているかということであり、食に追われているからといってなんら不幸の要素はありません。
オレの友人は、人間にとって一番不幸なのは「自分がナニモノであるか気が付いていないことだ」と言っていましたが、であるならば世の中の多くの人間は不幸であるかもしれないと思ってしまいます。だから、友人氏の言葉の背景にあるものは、人間にとっての幸福を追求することではなく、自分が「自身の思考において一定の到達を得た」という充足感を満喫したい気持ちであり、もしかするとそれを味わう必要があるほど、友人氏のコンプレックスは根深いのかもしれないと思ってしまいます。
オレにとっての人間の不幸とは、達成感のあとに何も残らないことです。日常にある小さな達成感は、時々味わい深いものですが、それは次に目指すべき到達点が見えているからであり、その後に何もないとなると、多分寂しい思いをするのではないかと想像します。
宇宙の果ては見てみたいけれど、その向こうに何も無いとなったらたまったもんじゃないのです。もしもその果ての先に何かあるのならば、果ての中に飲み込まれてしまいたいと思うのですね。

「自分には何もできない」と言って引きこもってしまう人が多いと聞きました。
「そんなことは無いよ」と言って励ましたと言う人の話も聞きました。ではそういう人は、自分に何ができるのか判っているのかというと、実はそんなことはなくて、単に自分は何ができるかということをあまり深く考えていないというだけのことです。
だから、自分を見つけられなくて引きこもっている人を励まそうとするならば、「自分だって何もできないけれど、ホラこうやって堂々と生きているよ」と言うべきなのですが、そうなると自分がいかにもバカっぽい感じになってしまうので、素直に本音を言うことが出来ない。
人間は何も出来なくても朝起きて飯を食って行くべき所に行きさえすれば生きていけるようになっている、とありのままに言ってしまえばいいのではないでしょうか。
生きていれば何かが出来るようになるかもしれないけれど、それは可能性の問題であり、大多数の人間が可能性のまま生涯を過ごしてしまうのです。
ただ、何も出来ない人間のまま終わってしまうとしても、「何も無い人間」というのはありえませんし、そうはなって欲しくありません。何も出来ないという理由だけで引きこもり続ければ、何も無い人間になってしまうかもしれませんが、それでも少なからず何かがある人間になっていくものです。
「何も出来ない」というのが、達成感を味わうことが出来ないという寂しさから生まれる言葉であるのならば、多くの人間が同じような気持ちを共有できるはずです。ただそれは達成感というものを、必要以上に大きなものとして認識しているせいであり、別に掃除や洗濯をすることやカレーライスを作ることで達成感を味わったっていいのです。誰にでもできることで達成感を味わうのは、人間として器が小さすぎるんじゃないかと思う人もいるでしょうが、では大きな器で味わう達成感ばかりにしか価値は無いものなのでしょうか。
大切なのは、どんな小さなものであれ、達成感を継続させたり次に繋げたりすることで、明日に希望を持つことなのではないでしょうか。書類の整理が終わったとか、無事故で配達を終えたとか、レジの打ちミスが無かったとか、そういうことで日々味わう小さな達成感が、確実に明日への希望に続いていることを我々は毎日体験しているのですから、そういうことを分りやすく、恥も外聞も捨てて誰かに伝えてもいいかもなあと思います。
人間とはそもそも小さなものであり、大きなことは何も出来なくて当たり前。ところが何も出来ないくせに何かやろうとしてもがくから、人生が面白くなる。あるいは何かが出来ているのに、それに気付かず迂闊に看過したりしているから、人間は魅力的になる。そして、思ったことや望んだ道とは大きくかけ離れたところで、夢想だにしなかった達成感を味わうから、思わぬ幸福感を得る。
そういうことを踏まえて、オレは我が身を振り返ってみるのですが、職業柄なのか持って生まれた性質なのか、日々何も達成しないままに過ごしているという実感があります。
それをオレは「無為である」と言っています。無意味である、とも言えるのですが、それをいってくれるなブラザー。
無為であることを言葉で説明するのはとても難しいです。
時々警察官に、こんな時間にこんな所で何をしているのか、と問われることがありますが、その際に「何もしていない」と説明することの難しさによく似ています。
「何も無い」とか「何もしていない」というのがどういうことなのか説明するのは不可能です。誰だって「何もしていない」と言っている人間の言葉は信じてくれません。
「オレはやっていない!」と叫んでも、無実になることは稀です。結果幸運にも無罪を勝ち取ったとしても、それは「決定的な証拠が見つからなかっただけ」と判断され、「アイツはまさしく運が良かった」とか、「司法の目を潜り抜けるほどの悪だ」とか、「いつか天罰が下る」と一方的に断罪されてしまうのです。
なので、自らを持って「無為である」と評するのは、自分自身の存在を根底から否定するような危険が伴ってしまいます。なぜかというと、自分が無為であるとは自分でも信じられないからです。オレのことだから、きっと何かしでかしている、気付かないところでヤバイものが堆積しているはずだ、などと疑ってしまうことがあるのです。
オレは自分でも、よく今まで生きてこられたものだと冷や汗を流すことが多いです。
こんな人間でも生きていけるのだから、世の中ってヤツは結構ヌルイんじゃねーのか、と思い始めています。
株でも買ってみようか、などと考える今日この頃です。
みなさんも暑さには気をつけてください。
posted by 肉王 at 02:30| Comment(8) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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