2010年12月31日

これで最後なのね、とあなたは言った。でもボクは、金星はまた昇るのだと答えた。

やあどうも。

先だってはオレの単独カラオケライブ「あなたのお金で死ぬまで歌う」に参加してくれた5兆人のお客さんたちに、心よりお礼申し上げます。
黄色い声援もアンコールも特に無く、唯一の会話が「あ、川村さん、15分前だそうです」だったなんてことは子々孫々まで内緒だな。

今年は全然更新しなかったなぁ。
来年は最低でも年24回は更新します。
頑張りますよ。
いやまあ、今年だって頑張りましたよ。
じゃあ、良いお年を。
来年はみんなカネ使ってくれよ。
posted by 肉王 at 02:22| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月21日

聖水をジョージョー

やあどうも。

ウンコの話をしようと思うのだけれど、オレのようなプロがキミタチ素人相手に1ラウンド目からラッシュをかけるのも可哀想なので、まずはオシッコの話から始めようか。

まずは男が登場。
ウヤウヤしくご挨拶をしたあと、おもむろに放尿。
「皆様、にょうこそいらっしゃいました」
場所がどこでアレ、放尿という行為に重大な違法性はありません。ましてや、失禁となると、場所がカーネギーホールでさえもOKです。
とはいえ、地域によっては公衆での放尿は禁じられているので気をつけなければいけません。ただ、事情が許せば有耶無耶になるだろうということです。
もちろん、放尿シーンをお茶の間のブラウン管にお届けするのはやや問題がありますし、ましてや性器から今まさにダダ漏れている様を放送するわけにはいけません。
・・・えーと、話が遠回りしすぎてしまいそうなのですが、もう少し我慢してお付き合いください。ああ、もちろん尿は我慢しなくても結構ですがね。
放送局には、自主規制なるものがあるようで、性器や死体を映すことはともかくとして、言葉上不適切な感じがする単語は使用しないことになっているそうです。
例えば、「キチガイ」「カタワ」「メクラ」などですね。これらの言葉は、「精神障害」「身体障害」といった言葉に置き換えられています。つまり彼等は、「キチガイ」や「メクラ」の存在は知っているけれど、それらは「健常」なる状態と比較して「障害」を発生させているものであり、一般社会の中で見ると「瑕疵」である、と言っているわけです。
ところが、一方的にそんなドギツイ設定をしておきながら、それらを積極的に取り扱おうとはしてくれません。それどころか、その言葉自体をも無きものにしようとして、自主規制なるものを設けているわけです。
オレは時々、会話の中で「キチガイ」という言葉を使いますが、すると相手によっては不快感を露わにされたりします。
ずっと以前に、まだオレがサラリーマンだったころ、「キチガイ」という言葉は法律で禁じられていると信じていた若者もいました。多分、テレビの自主規制を拡大解釈していたのでしょう。その誤解を解くのに、少し苦労した覚えがあります。
「キチガイって言ったら駄目なんだよ」
「じゃあ、なんて言えばいいの」
「精神障害とか・・・」
「キチガイって、故障した人間のことなの?」
そういう会話をした記憶があります。
キチガイとは、気が狂った人間や盲目的に何かに夢中になっている人間のことであり、別に故障した人間のことではありません。キチガイだからといって法律的に裁かれることは無く、生存する権利を剥奪されるわけでもありません。オレとしては、適当なところで思考を停止させた人間はすべからくキチガイであり、本質を見ようとしなかったり目的を見失った人間はメクラであると言いたいのですが、そこまで声高に言うほど尊大な性格では無いので、「もう少し柔軟になった方がいいんじゃないの」という程度におさめています。
さらには、キチガイという言葉を他の言葉に置き換えるだけならばまだしも、その存在を無視しようという行為は度し難く、また許し難くもあります。
というのも、キチガイについて語ろうとすると、何がしかの反発を受けるからです。先の若者と、キチガイという言葉の何が悪いのかを語ろうとしたら、一方的に話題を遮断されてしまいましたし、また他の場所でもやはり同じような対応を受けることが多いのです。
どのような方向性でキチガイを語るかにもよるのですが、多くは「いかにもキチガイっぽい人」を、アレはやっぱりキチガイだよね、というように評した瞬間に会話を遮断されることが多いようです。
それは取りも直さず、「アレはキチガイだな」という共通認識が出来た瞬間であり、お互いにそれが解った段階で、そこから先に思考や興味を推し進めてはイケナイ、という了解が出来てしまうことなのです。つまり、オレに言わせると、「お前もキチガイだって思ったんだろ!」ということなんですよ。別に興味本位であろうと無かろうと、そこから思考を発展させたって構わないじゃないか、というのがオレの主張であり、それに対して、それは社会の腫れ物であり、触れること相成らぬ、というのが相手の主張のようです。
別段この程度では意見が鋭く対立した、などと思うことは無いのですが、ただその瞬間的な思考停止っぷりに空恐ろしさを感じてしまうのです。誰によってそんな風に思考を操作されているのかと言うと、それは多分マスコミの自主規制に伴う無責任さを安逸に受け入れた自分自身なのだろうと思うのですが、だとするとマスコミと言うのは恐ろしく深いところまで人の心に食い込んでいるのかということになるのですが、実はそうでは無くて、マスコミの無責任さを感じるほどの敏感さが人の心から失われている、ということではないでしょうか。
人は心で感じる、などと歌謡の世界では言いますが、本来は脳みそで感じているはずです。であるならば、自分が感じたことが何なのかを考える方向に思考が移ってしかるべきなのに、「感じることだけが全て」などという世迷言に誤魔化されて、表面上の感動だとか不快感だとかだけを「感じることだけで全てを解決」させてしまっているのかもしれません。
創作をする人ならば理解してもらえるかもしれませんが、「感じたことを形にする」のが創作者の生きがいであり、歓びです。音楽家は楽譜に、作家は原稿用紙に、画家はカンバスに「感じたこと」を表現します。そこでは、感じたことを一度言葉にする作業があり、その言葉をさらに自分の表現方法で翻訳するのが創作活動です。
感じるだけなら犬や猫でも感じるものなのであり、それを更に発展させて伝達させるからこそ人間であると言えます。ならばただ感じているだけの人間は動物程度か、というとそれはそうではなく、どんな人間であっても人は日々感じたことを何とか言葉にして社会生活を営んでいるのです。ただ、それを翻訳しようとしないだけです。
人には様々な権利があり、貧乏をする権利もあれば自殺をする権利もあります。表現だってその一つです。ただ、それらには歴とした義務がなく、貧乏するなら盗むな、自殺するならひっそりと、表現するなら上品に、といった不文律が先行しているに過ぎないため、それを踏み外すと社会的には迫害を受けやすくもあります。ただ、だからと言ってそれを過度に擁護したり卑下したりすると、人の心はなお一層薄っぺらになっていくように思います。
幸か不幸か人の心には制動がかかるようになっています。それは社会性でもあり、道徳や躾の成果であるのかもしれません。その証拠に、どういうわけか世に出てくるものは時代性とそれに伴う公共心を反映したものが多いようです。悪意に満ちたものが悪いとか、荒廃したものが恐ろしいなどと思う気持ちがあっても、それはやはり自分たちの身から出るものを表していると思わざるを得ないのだということです。
表現や思考に枠や規制を設けても、多分それは人の心が変わらない限りどこへも押し込めたり出来ないし、ましてや消え去ることもありません。
世の中を良いものだけで満たしたいのならばまずは自分自身が変わらなければならないし、それが無理なことは承知の上で世に有るものを規制したいのならば、キチガイにでもなるより他に術は無いのではないでしょうか。
しかしどうやら世の中では、キチガイなった途端に存在を無視されるようなので、どうにもこうにもご愁傷様ですとしか申し上げようがありませんな。

再度、男が登場。
放尿をすませた後の性器をプルリンプルリンと振りながら。
「にょうもお粗末さまでした」
一礼したあと、ブリブリとウンコを漏らしながら退場。

posted by 肉王 at 03:28| Comment(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月19日

言葉を頂戴。もっとエロくて気の効いた言葉を頂戴!!!

やあどうも。

小骨がノドに引っかかっています。
何かを思い出しそうな予感。
いや、それよりも、忘れてしまったことの方が多いことこそが大問題。
そんな気がしている43歳の冬。
のっけからバラバラな文脈で申し訳アリマセンが、なんだかこう、物凄く不安定な気分でいるのです。
ここ数日のテーマがあり、そろそろそれで一発したためようかと思っていたのに、何もかもを綺麗さっぱり忘れてしまったんですね。
突然何かがひらめいて、すわや!とばかりに表へ飛び出したのに、数十メートル走ったところで何故自分が駆け出したのか分らなくなる、なんてことが人間にはよくありますが、アレとちょっと似ています。
どこかへ行って誰かに会わなければいけないような気もする。
病院に行って医者に会わなければいけないのか?しかしそうなると二度と帰ってこられないトコロヘ収監されそうな気もする。
まあ、孤独が好きなオレだから、気にしないで行っていいのだけれど。
ム!
寺尾聡!?
寺尾聡はなんか近そうな気がするぞ!
・・・違った・・・違ったわー。

考え事も、考えすぎれば何も考えていないのと同じ結果になりがちで、それは左翼も右翼も権力を握ればやることは一緒になるのと同じ。
そういやぁ東京都では青少年健全育成条例改正とやらで、またぞろエロ漫画に規制をかけるとか。
日本の出版社は東京に集中しているので、東京都の条例とは言え結果日本中に規制をかけるのと同じだろうと思う。
言論封殺や表現規制は、権力を持つ者にとっては重大なテーマだから、エロ漫画を対象にしているとは言っても、いいきっかけになることは確かだ。都知事も副都知事も作家なのに、権力側に立ってしまえばこの有様である。自分に関わりのあるジャンルでなければ撲滅してしまうこともやぶさかでないということだろうか。
この問題に関しては、反対派が議論を重ねる一方で賛成派は全く議論をせず、感情の赴くままに世論を誘導しているだけのように見える。いつの世でも感情に動かされた世論は力強くて、時にはそれで戦争になったりしている。戦後、それじゃいけないと思った人達が、何事も冷静なる話し合いで解決しようとして受け入れた民主主義のはずなのに、その渦中でどっぷりと教育されてきた人達がやっぱり同じ事をしでかしてしまうのは、全く笑止の極みであると思う。
対象がエロだから問題無いはず、と考えるのはいかにも浅薄で、権力というものは何であれきっかけとして利用しにかかるものなのだ。
例えば大衆の多くが煙草税の大幅増税を歓迎ムードで受け入れた途端、自動車税・環境税・消費税などがすかさず俎上に上がった事をどう考えるのか。一部ではペット税なるものも創設されつつあるとの報道があったくらいだ。
つい去年まで「ガソリン税値下げ隊」などと言っていた政党が、法人税だけを値下げして、他は増税だなんてことを言っているのをどう考えるのか。
本来権力を監視するべき市民が、何故権力に与する必要があるのか。
表現の自由と言えば、憲法で保障された権利なのに、それを形骸化しようとする条例に、何故諸手を挙げて賛成するのかが分らない。日頃「護憲だ護憲だ」と叫んでいるヤツラは、こういうときに頑張らないで、いつ頑張る気でいるのか。民主主義が大事だと信じているヤツラは何を考えているのか。
表現の限界というものは、権力をもって強制されたり規制されるものではなく、創作者が自身の心と葛藤したり覚悟を持ったりすることで自然形成されるべきものだ。
「社会の規範」や「親としての心情」という一般論でひと括りに規制してしまった都知事は、少なくとも表現者では無いし、かつて自らが著した作品を否定したことにもなると思う。
大きくとも小さくとも、権力とは恐ろしいものである。
国家という大きな権力で社会は方向を変えられ、会社という小さな権力で人々はがんじがらめになる。かつて、言論や表現で権力に立ち向かうことを望んだはずの「団塊の世代」は、見事に権力を手にして思うさま腐敗している。
ヤツラは、本当はこんなはずじゃなかった、なんてことは多分考えていないはずだ。むしろ望みの物が手に入って歓喜しているだろう。言論も表現も、ヤツラが都合よく振舞うための道具であり、本当の意味での武器にはしていなかったのだということが窺い知れる。
「弾圧はいかん」「軍国主義はいかん」「独裁はいかん」と言っていたヤツラが作り上げようとしている世界が、まさに「いかん」そのものに逆行していることに、何故気が付かないのか。
こうなってくると、日本には民主主義なんて不必要なんじゃないかという気がしてならない。

グダグダな話から始まった割には、なんか格好良いトコロに落ち着いたようでなによりです。
何でも言ってみるもんだな。
posted by 肉王 at 02:22| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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