2012年02月17日

怖くないものを怖がる方法

やあどうも。

前回の文章で、オレはいつも通り少し言葉が足りなかったような気がしますよ。
なんだか文脈的に「努力をしないとダメだ」「あー駄目だ駄目だこりゃ駄目だ」的な言い回しになってしまったんじゃないかなと思うわけですよ。
オレが言いたかったのはそういうことじゃなかったんですよ。
そもそも努力なんかしなくたって全然いいじゃない。どんな人だって自分では気が付かないだけで、結構そこそこの努力はしているんですから、そこからさらに上積みなんかしなくたっていいじゃないですか。そういうのは好きな人だけがやればいいことですよ。
我々は、落ちて怪我をするほどに登らず、岸に戻れなくなるまでは泳がず、逃げ足が遅くなるほどは盗まず、死ぬまでは殴らないように生きているのが丁度いいんです。
そうしてそこそこに生きていれば、必要以上の地位や名声や幸福を望まないでぼんやり突っ立っていればいいのに、一方で「霊感」だの「予言」だの言っている人たちは、そこそこ以上のものになりたがって救いがたいなぁ、ということが言いたかったんですよ。

さて、一通りの申し開きが済んだところで、本題に移りましょうか。本来ならばもっといろんな方面に申し開きやらお詫びやらしなければいけないのでしょうが、まだ電気供給停止のお知らせや訴状も殺害予告も届いていないので、正々堂々と本題に入りましょうか。
さても。
幽霊って、どうして怖いんでしょうか。
いや、オレは幽霊は怖くないんですけれど、世間一般では幽霊は怖いものとされていますね。
おカネが無いと、幽霊より怖いもののほうが多くなるんですが、じゃあそれで幽霊が怖くなくなるのかというとそうでもないようです。洗いざらしの貧乏人に幽霊を見せても、多分怖がることでしょう。
幽霊が何をするものなのか、何をしに来ているのかを知る前にただ怖がっているばかりでは、火を怖がる原始人と同じです。
皆さんはこんなページを見に来るくらい暇な貧乏人なのでしょうが、だからと言って火を怖がる類の人たちではないと思うので、一緒に考えてみませんか。

そもそも、幽霊とは一体何なのでしょうか。
世間一般の定義では、死んだ人の魂ということになるのでしょうか。人に魂なるものがあるのかどうかの議論はまた別の機会に譲ることにして、まずは魂があるものとして考えていきましょう。
人が死ぬと体から魂が抜け出て、何処かへと行く。何処へ行くのかは分からないけれど、とにかく一律に何処かへ行く。しかし時々何らかの理由で何処へも行かずにその辺を彷徨う魂があり、それが一般に言うところの幽霊である、という認識でよろしいでしょうか。
死んだ瞬間には見えなくとも、彷徨い始めると見えるようになる魂が幽霊なのか、という疑問があるのですが、それを語ると多分大きく脱線するので、ここはぐっとこらえておきます。
さて、彷徨う魂は一体どういう理由で何処かへ行かずに彷徨うのでしょうか。霊能者たちの多くは、「この世に恨みや未練があり成仏できなかったから」と言うようですが、果たしてそれには確かな根拠があるのでしょうか。オレが聞き及んだところでは、ねんごろに弔った身内や親戚の幽霊話なども多くあり、その幽霊たちは決してこの世に恨みや未練を遺しているとは思えません。多分、「そういうケースもあるのだ」ということなのでしょう。してみると、幽霊というのは、この世を彷徨っているものだけでなく、何処からか都合よく現れたりするものも含まれているようです。行けば行ったで行ったきり、とはならないのでしょう。
となると、幽霊は何らかの理由があれば出てくるということです。逆に言うと、理由が無ければ出てこない。
古典落語や民話などでは、無体に自分を殺した相手を呪って出てくる幽霊話が多くあります。古くは万葉集にも死者の霊を歌った歌があるし、古事記の黄泉比良坂なども、現代版に置き換えると幽霊話にされそうですね(黄泉比良坂は別に幽霊の話じゃありませんが)。
我々は幼少時からそういったものを見聞きした下地があるので、この世に幽霊的な何かがいることをなんとなく刷り込まれています。この世のモノならざる者に追いかけられるイザナギの姿に自分をダブらせるような感覚とでも言いましょうか。あるいはお岩さんに追いつめられる伊右衛門さんに感情を移入したりして、呪われることの恐ろしさを思い知らされます。
それだから、幽霊とは生者に災いをなすものとして捉えられているのでしょう。だから我々は、幽霊が出たという事実があると、一方的に災いをなしに来たと考えてしまいがちです。その瞬間は幽霊の本来の目的や出現の理由如何は全く問題にされず、「出たー!お助けー!」的な対応に追われているだけで、出現の理由を勝手に憶測しているにすぎません。
世に数多いる怪談師や霊能者たちは、この辺の段階で話を留めて、ああでもないこうでもないと言って人気を取ったりカネを取ったりしています。人を呪いに出てくるのが幽霊である、というわけです。
ところが、先にも述べたように、幽霊は理由があって出てくる反面、理由が無いと出てこないもののようだと考えると、「決して出てこない幽霊」という存在についての問題が残るとは思いませんか。人の魂が理由の有る無しで何処かとこの世を右往左往するのならば、どんな魂であっても出てきて不思議ではないでしょう。
例えば、生前とても優しかったキミタチのおばあちゃんを思い出してくれたまえ。まだ死んでなくても死んだことにして思い出してくれよ。あの優しかったおばあちゃん。ダルマの起き上がりこぼしをくれて、「こいつ、いくら殴っても起き上がってきやがんのな。ムカツクわー」と笑いながらキミタチ頭を優しく撫でてくれたおばあちゃん。あのおばあちゃんが、キミタチのピンチの場面で何処からかやってきて助けてくれたことがあっただろうか。もしくは、毎日のように新聞に載る不幸な死に方をした子供たちを助けてくれただろうか。
理由があれば出てくるはずの幽霊が出てこないとなると、キミタチや不幸な子供たちを助けるのは出現の理由にはならない、ということになりはしないか。
となると、幽霊というのはすべからく生者を呪うためにしか出てこないものなのでしょうか。
こんなことを言うと多分、「いや、人を救うために出てくる幽霊もある」という意見が出ても来ましょう。ならば、キミタチはともかく(どうせパチスロで大幅に負けたとかいう理由だろうから)、不幸な死に方をした子供たちを救いに現れないのは、現れられない理由があるからということなのでしょうか。それは生者を呪うこと以上に重要な理由なのでしょうか。
もしそうだとするならば、呪いに来た幽霊よりも、姿すら現さない幽霊のほうがよほど怖いということになるのではないでしょうか。だとすると世間では、一番怖いものではなく二番目に怖いもののほうを怖がっている、ということになるんじゃないかと。
もう暴論を覚悟で(毎度のことだけれど)もう一歩踏み込んでしまうと、二番目に怖いとはいっても目の前に出ている幽霊とこちらに何の因果も関係も無ければ、呪われる理由すらないのだから、怖がる理由も無くなるのではなかろうか。
「人違いである!」
そう言ってのけることで解決できるのではないか。
そんな理屈が通用しないから幽霊は怖いんだ、というならば、一体幽霊に何をされるのを怖がっているのかという問題になる。
そうです。
理由の有無を問わずに、幽霊の何が怖いのかという問題こそが重要なのです。
幽霊は何をするんでしょうか。
これまでオレは、「幽霊に呪い殺された」というニュースを見聞きしたことがありませんし、身の回りで幽霊に殺された人もいません。殺されないまでも、怪我をさせられたとか、パンツにウンコを付けられたということも聞いたことがありません。
幽霊に物理的に何かをされた、という話を一切聞いたことが無いのです。
唯一、霊に呪われて神経をやられたという話は聞いたことがありますが、そもそもそれを語っている人が神経をやられているような人でした。
理由があって出現しているくせに、物理的には何もできないならば、何を怖がればいいのでしょうか。
醜悪な外見ですか?
それならばキミタチだって立派なもんでしょう。
耳障りな声ですか?
オレやジャイアンの歌声だって負けていません。
恐らく、幽霊に何をされるか、ではなく、幽霊が出たという事実が怖いのではないでしょうか。幽霊に出てこられる理由が思い当たるか、かつての怪談で見聞きした知識で、呪い殺されるかもしれないと思い込んでいるだけなのではないでしょうか。
ああ、ついでに言うと、そんな時にもあの優しかったおばあちゃんは助けに来てくれませんよね。
その状況で本当に怖いものを挙げるとしたら、何があっても無視しているおばあちゃんのほうが怖くありませんか。もしもその場で幽霊に呪い殺されたとしても、そんなおばあちゃんのいる世界に行くのはゴメンだし、そばにも寄りたくないですね。
あ、そうなると幽霊は少し怖いかもしれません。
でも、それ以外の怖さは無いような気がします。

さて、もう我慢が出来ないので話を少し脱線さて、本日の話題を終わりにさせます。
近頃の怪談の傾向に、因縁の無い恐怖というのがあります。
上で例として挙げた古典落語や民話の世界に出てくる幽霊は、必ずと言っていいほど因縁にまつわる話です。
殺された恨み、死に追いやられた恨み、生前いじめられた恨み、その他の理不尽な扱いを受けたという理由で、相手を呪う話が殆どです。舞台設定として、化けて出る方と出られる方の双方に理由があるわけです。だから見ている方は分かりやすいわけです。
ところが最近の怪談には、その因縁が無いものが多いです。まるで通り魔的に襲われる話が多いようです。怪談師たちも、好んでそういう話をしています。
そういう話の源流はどこにあるのかと考えると、すぐに思い浮かぶのがいわゆる「都市伝説」です。「口裂け女」とか「ベッドの下の斧男」などの都市伝説は、誰でも聞いたことがあるでしょう。あれらの怖さは、理不尽な暴力を下地にしているせいで恐怖感が生まれています。映画の「リング」や「呪怨」も、そのような手法で描かれています。
呪い殺される覚えがないのに、ターゲットにされる恐怖。それは街で通り魔に襲われる恐怖と共通しています。
昨今の怪談師たちは、そのパターンに則った怪談を語ります。故に、そのディティールも「リング」「呪怨」などの剽窃ばかりです。どうやら、それが彼らの間での流行のようです。
かつて柳の下で「恨めしいのですが何か?」と手首を垂らしていた幽霊は、もはや古いディティールとなってしまい、体中に矢が刺さった鎧武者やタクシーの後部座席の濡れた女も昭和の幽霊扱い。現代の幽霊はパソコンやケータイを巧みに扱い、デジタルカメラやDVDにも映らなければならなくなりました。
出現する理由が解決されないうちは、柳の下であろうとタクシーであろうと出現し続けなければならないのに、そういうのは古い、という怪談師や霊能者たちの都合で存在を抹殺されてしまったようです。まるで、最新機器を扱えない幽霊は必要無し、と言わんばかりです。かつて、パソコンを使えないお父さんたちが窓際に追いやられ、リストラされたようじゃありませんか。お岩さんも、復活の野望があればパソコンを覚えなければならいのでしょうか。
時折、パソコンのディスプレイに旧日本軍の兵隊が現れて・・・などという思い切った話をする怪談師がいますが、それが本当だとすると、兵隊さんは随分頑張ったんだなぁと思うわけです。そう考えると、幽霊が怖いなんて考える方がどうかしているとしか言えなくなるわけです。馬鹿な人たちの稚拙な創作に踊らされてもしょうがねぇなぁ、と。
語っている人たちがどれだけ自分の分析が出来ているのか知りませんが、もういい加減に通り魔的パターンから脱却してくれないか、映画やドラマや小説からの剽窃(盗用)はもうバレていることに気付いてくれないか、と痛切に思うのです。

昨今の恐怖の主流は空から降ってくる目に見えないものになっています。怪談師たちがこれをどう取り入れるのか楽しみではありますが、でもその前にオレが本日ここで、「現れない幽霊の恐怖」を語ったことを忘れないでおいてくれると嬉しいです。
posted by 肉王 at 02:14| Comment(9) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月15日

努力しないでチヤホヤされる方法

やあどうも。

努力、してますか?
タユマヌ努力とか死に物狂いの努力とか、してますか。
思い出した時だけ努力して、すぐに疲れてしまったりしていませんか。
まあ、日常的にこのページを見に来たり、「自殺」「遺書」「書き方」なんてキーワードでこのページに辿り着いちゃった人たちは、おおむね努力とは縁遠いか、あるいは見当違いの努力に振り回されたりしている人たちでしょうね。
別にそういう人たちを非難する気はありませんよ。だってほら、オレ達は同類だから。オレなんかあの地震の時に、「これで世の中全部チャラになったらラッキー」とか思っちゃいましたからね。
日頃の努力を真面目に怠り、明日から頑張ろうとか思いつつも一方では「明日なんか来なければいいのに」とも思っているオレ達は、朝日が昇る頃に眠り、他人様が午後へ向けてのエネルギー補充の為に安い昼飯を食っている最中に目覚めたりしているわけです。
午前中に見る夢というのはなぜか悪夢が多くて、出来もしない仕事を言いつけられて狼狽するか、出来るふりをして内心焦っているとか、どことなく身に覚えのある罪科で裁かれようとしているとか、様々なシチュエーションでこちらの絶望感のみをブラッシュアップしてきます。
「これ以上悪夢に苛まれるのはたまらないから」という理由で起床して、煙草など吸いながらテレビや新聞で世間様の動向をボンヤリと見ている内に、特に意味のない焦燥感が湧いてきて、せめて今日一日だけでも頑張ってみよう、とは思うものの、それだって本気だかどうだかわからない。
本当はプロ野球の選手になりたかったけれど、本式の練習は嫌だった。バットの素振りはしたけれど、それはボールよりもむしろ誰かの脳天を叩くための練習だった、なんて覚えは誰にでもあるだろう。
アイドル歌手になってチヤホヤされる想像ばかりしていたけれど、自分がドブスであることを客観的に見たことはなかったし、夜食のコロッケはやめられない、という人だって多いはずだ。
不登校で高校中退、就職後1か月で退職して以後無職、特技も資格も無く、人脈は親兄弟のみ。カネは無いし知識の全てはネット頼み、想像力だけはあると思っていてもよく考えてみると既存のイメージの焼き直しか盗用ばかり。
将来の夢は無いことは無いけれど、声優とかライトノベルズの作家なんていう知能の足りない子供じみたものだったりする。楽に高収入を得てチヤホヤされて、努力も不要と思い込んでいる。どんな仕事にも努力は必要なのだけれど、これまで努力をしたことがないから、どんな努力をすればいいのか分からない。分からないから才能だけで何とかなりそうな世界に憧れて、そこで成功している自分の姿を想像しているだけ。
その背景には、ごく単純に、かつて自分を馬鹿にしていた連中を見返すには一発逆転しかない、という焦りにも似た感情がある。
それが叶わないならば、じゃあ世界なんかいっそ滅びてしまえばいいと考えたり、でなければ自分だけが滅びてしまえばいい、なんて思いつめる。生き方の底辺に、「努力を積む」という覚悟がない人間は、中庸かその下くらいでいいという謙虚さは無いし、誠実に努力を積んでいる他人が厭わしく思えて仕方がない。
思いつきのようにたまに努力をしてみても、それが実らないとなると世の中の不公平をなじり、それを理由にしてもとの自分に戻ってしまう。報われない努力など、この世には腐るほどあることを理解できないか、あるいは自分自身を過大評価しているくせに、どこかで「どうせ駄目さ」と卑下している。ならばいっそ「落ちればいいな」と思いながら面接に行くとか、無理を承知で東大を受験するくらいの遊び心を持てばいいのに、ちょっとしたことでもすぐに傷つくガラスのプライドがあるからそれも出来ない。
世に出るからには最初からスターでありたい。特別な人と言われたい。幼少のころからそういう風に育てられてきたし、空手形とはいえそういう約束の筈だった。
最初に手のひらを反してきたのは世の中のほうなのだから自分は間違っていない。自分が間違っているというヤツは、その根拠を示せと思っている。自分は自分の言っていることの根拠を示すが、それを解ってくれる人間はごく一部だろう。解らない奴らには解ってもらえなくて結構だ。
そんな理屈が通用する世界は無いか。
自分にしか解らないはずのものに、誰かが理屈をつけてくれて、自分が色を付ければそれをみんなが無条件で認めてくれるような、そんな世界はどこかにないか。
目に見えないものを武器として振り回せば振り回すほど、自分の値打が上がる世界だ。

あ、ありました。

今、世の中で「自分には霊感がある」とか「占いや予言は正しい」とか言っている人たちの全員は、上記のような精神状態を何パーセントか内包しているものと思われます。
posted by 肉王 at 01:42| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月04日

お手軽に幽霊を見る方法

やあどうも。

オレは怪談が好きですよ。
講談や落語をはじめ、素人が語る体験談なども積極的に聞いています。
最近ではYOUTUBEやニコニコ動画などでも沢山の怪談が公開されています。その他、ネトラジサイトなどでも沢山の人たちが怪談を語っています。
かく言うオレも過去にこの欄で怪談を書いたりしていました。
実は怪談というものは、書くのも語るのも簡単で(講談や落語は別)、ある程度形の決まったパターン(擬音などの効果も含む)に則ってしまえば、いくらでも量産できる類のものです。
例えば、「誰かから聞いた話」という設定であれば、多少強引でも「新聞に載った」「ニュースになった」などという信憑性を持たせることで、聞き手の抱えそうな合理性を問う種類の疑問を振り払うことが出来ます。
また、「自分が体験した」という設定であれば、実際の場所や時間を曖昧にすることで、より話に信憑性を持たせることが出来たりします。
ただ、どちらにせよ「嘘」や「創作」なので、基本的に聞き手の優しさに甘えざるを得ないのですが。

公の場で「怪談が好きだ」と書くと、「あなたは幽霊を信じるのか」「霊感の有無やいかに」と言ったバカげた質問を受けることになります。
いくらオレがバカでも、自分が嘘を書いたり語ったりしている自覚はあるので、幽霊を信じるかどうか、霊感があるかどうかという質問に答える気にはなりません。
ところが世の中には、いい歳をこいてもなお「自分には霊感があり、よって幽霊を見ている故」というようなことを公言してしまう人もいます。本人はいたって本気なのでしょうから、それを徹底的に否定するのもどうかと思うので、やんわりと反論することにしています。
「霊感が無いと幽霊は見られませんか?」
すると、「見る」からには何らかの条件が必要で、その条件の一つが霊感なのである、というような答えが返ってきます。
オレとしては、何らかの条件が整えば人は幽霊を見ることが出来るという理論には賛成なのです。しかしその条件に霊感は含まれないと考えています。
人間は、幾つかの条件さえそろえば、幽霊を見ることが出来ます。とは言え、なにもそれはオカルティックな理論ではなく、神経や脳のお医者さんの専門分野でも語られていることです。
その点に関してはややこしくなるので後述することにして、一旦、話を怪談に戻しましょう。

先にも書いたように、現在はネット上の各動画サイトに怪談が乱立しています。
特に「怪談師」として自分の体験としての怪奇話を展開する人たちが増えています。
オレが良く聞くのは、ファンキー中村さんという人の怪談サイトです。この人は数百の霊体験を持っているそうで、それをネトラジや怪談イベントで語っているのです。
オレとしては、人様が何で生計を立てようと口を差し挟むつもりはないので、この人が本気で幽霊を信じているのかどうかなどには全く興味がありません。
ただ、この方が時折、理論的に全く破綻していることを堂々と語るのが少々気にかかります。
例えば、「何でもかんでも心霊現象として考えるべきではない」と言う一方で、自身が語る現象を全て心霊現象として定義付けている点。あるいは、「不幸な死に方をしてこの世に未練を残してさまよっている気の毒な霊もある」と言いつつも、醜悪な姿の霊と出会って冷や汗を流す話ばかりする。東日本大震災後の回では、「瓦礫って言うのはやめろよ、いろんな思い出とか詰まっているんだから」と泣きがなら言ったかと思えば、放送中に紛れ込んだ異音に対して「霊だ霊だ」と盛り上がったりしています。
この辺はまあ人間の持つ当然の矛盾とも言えなくもないのですが、あまりに度が過ぎると可愛げがなくなります。正直、このあたりのことに関しては、オレは問題なくスルー出来るのです。全然問題なし、と言ってもいいくらいです。

ただ、オレがどうしても同意できないのは、これらの人たちが必ず言う、「霊の非在を科学では証明できないじゃないか」というもの。ここでミソなのは、「存在」ではなく「非在」。
単純に言うと、「幽霊がいないというなら科学的にそれを証明しろ」ということになります。
こういう問題提起をする場合、「存在する」という側がそれを証明するのが科学であり、本来ならば本物の幽霊を差し出したうえで、「これを科学的に証明しろ」と言うべきです。そうでなければ、「科学」を俎上に上げるべきではありません。
多くの「自称霊能者」「霊感を持つ者」「霊の存在を叫ぶ者」たちは、これまで一体のサンプルも提出したことがありません。これではそもそも科学の出る幕はありません。これに関して彼らは、どのように反論できるのでしょうか。一度聞いてみたいと思います。ファンキー中村さん自身は「霊を否定する人に対する反論が可能」ということも言っているし、「そういう人と一晩語り明かしたい」とも言っていますが、果たしてどうなんでしょうか。

例えば平原に一輪の花が咲いているとします。他には何もありませんが、その花だけは本物の花です。ところが、その花の周りに沢山の造花を植えていき、そうして出来上がったのを花畑だと言い張るのが、いわゆる怪談師たちです。
造花の数が増えるにつれて埋もれてしまった最初の花は、いつの間にか本物としての価値も無くなってしまうし、本物だったという証しさえ立てられなくなってしまいます。
もしもオレが「幽霊を信じるかどうか」を本気で考えるとしたら、この最初の花にこそその根拠を求めたいところですが、数多の怪談師たちの偽の植林によってそれも叶わないことになってしまいます。
「幽霊がいる」というので、おっとり刀で駆けつけると、もうすでに怪談師たちによって荒らされた後、もしくはすべてが造花だったというケースのなんと多いことか。全く残念でなりません。

さて、「幽霊を見る方法」についてですが。
そもそも、人がモノを見る、というのはどういうことなのでしょうか。
単純に言うと、目に入ったものを脳が認識する、ということでしょう。
では、目に入るとはどういうことなのでしょうか。
それは、そのモノ自体が発光している場合、もしくは光を反射している場合、その光が目に入ってくるということです。
この過程を飛ばして脳がモノを像として認識した場合、それは幻覚ということになります。
一本の電柱を見た人が、「電柱が立っている」と認めた時、周囲のすべての人が「確かに電柱が立っている」と認識した場合、そこには確かに電柱が立っていると確定して問題はないでしょう。
ところが「霊感を持つ者」は、「その電柱に首を吊った男の死体がぶら下がっている」と言うのです。
もしも死体が本当にぶら下がっているのならば、それは光を反射している(もしくは発光している)はずなので、すべての人に死体が見えるはずなのですが、「霊感を持つ者」以外には認識できない場合、それを霊感のなせる業と考えるよりは、「嘘をついている」か「脳に障害がある」と考える方が合理的だと思います。逆に、「霊感を持つ者」以外の人が嘘をついていて、本当は死体があるのに「無い」としていたとすると、その「霊感を持つ者」が死体以外のモノを認知できない場合は、その霊感が疑問視される原因にもなり得ます(脳はともかく目は正常と言う結果にしかならない)。
オレが考えるところ、幽霊を見ようと思ったら、脳で直接見るよりほかにはないのではないかと思っています。
暗闇や雪山で見る幻覚、深夜の静寂の中で突然聞こえる幻聴、手術後の集中治療室での幽体離脱感覚などから、幽霊を意図的にみる方法はいくつか想像できます。
恐らく、その主たる手段としては感覚を遮断する方法が挙げられるのではないでしょうか。
視覚聴覚触覚を長時間遮断することで、多分既存のイメージの幽霊は見ることが出来るでしょう。その一つの例として、怪談師たちの語る幽霊のイメージがどれも既存のものの拝借物であることが挙げられます(白髪の老婆、黒く落ち窪んだ眼窩、髪の長い女、全身真っ白の子供、落ち武者、労務者、兵隊、人形、など)。
感覚を遮断する方法(場所や道具や時間など)は結構難しいようですが、普通の人間ならば寝入りばなに同じような感覚に陥ると思います。あの感覚を飼い馴らすことで、簡単に遮断できるのではないかと持っています。
もっと簡単な方法は、「単純に嘘つきになる」と言うことなのですが、それは最後の手段。
オレは寝る前に必ず本を読むのですが、その際、気絶するような感覚になるまで読み続けることがあります。そういう時に、無理矢理本を読み続けようとしている最中に、突然紙面から全ての文字がバラバラと落ちる幻覚を見たり、部屋の襖がスターンと開いて母親が怒鳴り込んできた幻聴を聞いたことがあります。また、わずかに開いた襖の隙間から植木等(クレイジーキャッツ)が覗いていたことや、とっくの昔に死んでしまった猫が布団の中でニャーと鳴いたこともあります。
これらの幻覚や幻聴に遭遇するのがいつも同じ環境時なので、多分人はこういう時に見たものを幽霊としているのだろうと思います。
幽霊を信じる人たちは多分、それこそが霊現象であり、それが霊現象でないことを証明して見せよ、と言うのだろうけれど、それは先に述べた通りで、ましてや毎度同じ条件下で起きる現象を心霊現象とは言えないでしょう。
皆さんもそれぞれの方法で幽霊を見てみませんか。
そして、もし面白い幽霊が見られたら教えてくれないでしょうか。
ただ、本当の事を言えば、オレはこんな理屈で幽霊もUFOもいないでしょう、なんてことは言いたくないのです。本当はいるんじゃないか、いたらいいなぁ、いてほしいなぁ、と考えているのです。是非とも本物に会いたいとさえ思っています。
なのに、世に数多いる嘘つきたちが邪魔をしてしまうせいで、その願いになかなか到達できないもどかしさがあるのです。もういい加減に造花をばら撒くのをやめてくれないかと痛切に思いますよ。
posted by 肉王 at 02:37| Comment(7) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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