2012年07月28日

楽に旅をする方法

やあどうも。

岩手県の釜石市へ行こうと思う。
そう思ったのは今思ったわけではなく、はるか先週に思ったのであるが、何がきっかけで思ったのかというと、ベイチさん(註:彼を知らない人でも読めるからご安心)が入手した情報がそれである。
私とベイチさんの師匠筋である掃苔文庫(そうたいぶんこ、旧・本曜日、以下・掃苔と略す)さんが、我々に何の断りも無く一人釜石市に居を移していたとのこと。しかも、ごく最近ではなくもう二年も前らしい。
先だって掃苔さんに電話をしたベイチさんが、呆れた、という風に知らせてくれた。
二年前といえば震災の一年前であり、我々もまだ二歳も若い頃である。
昨年の震災の折、当然私は掃苔氏に安否を尋ねたが、その時には全くそんな話は出なかった。
この場合、掃苔氏が二年間もの長きに渡って我々を騙していたと考えるべきなのか、それとも我々が二年間の間掃苔氏を放っておいたままにしていたと考えるべきなのか。
どちらとも言えるような気もするが、世間的には後者を選択されそうな気がする。とは言え我々にも若干の言い分があるので、こういうことには白黒をつけないほうが良いものとする。
あえて言うならば、ベイチさんがもっと早くに電話をしていれば何のことは無かったのである。
ともあれ、その掃苔氏に会いに行こうと思ったのである。
日程は7月25日と決まった。

さて、仙台から釜石へ行くには幾通りかの方法が考えられる。電車やバスなどの公共機関を利用する、私所有の自家用ジェットでひとっ飛びする、掃苔氏に車で迎えに来てもらう、ベイチさんにおぶさっていく、ドラえもんの実用化を待つ、犬ぞり、などである。
これらの選択肢の中でもっとも現実的なのは公共機関であり、以下掃苔氏、ベイチさん、ドラえもん、犬ぞりの順となろうか。私のジェット機は生憎車検であり、また釜石には飛行場が無いと聞き及んでいる。
さらに、これらの選択肢には基本的に人間としての心に欠ける部分が大であるということと、動物愛護協会が黙ってはいないだろうという理由から、ベイチさんとの協議の結果、彼の新車で出かけることとする。
彼の新車は今年の2月に160万円也で購入したものであり、今でも中古車屋へ叩き売れば20万円は下るまいという素敵な車である。
私としては彼がその素敵車で私の自宅まで迎えに来るのかと思ったが、彼の自宅がある松島から一旦私の住まう仙台へ出向き、然るべきのちにまた彼の荊扉(けいひ)の前を素通りしつつ釜石へ向かうというのはいかにも非効率的なので、私が朝早くにわざわざ松島まで行き、そこで待ち合わせて、彼の素敵車に乗り合わせて行くこととなった。
古本屋になる前の私の職業は宮城県内を隈なく歩き回る仕事であったため(歩くだけの仕事ではない)、頭の中には県内の裏道から表通りまでの詳細な地図が出来上がっている。だによって、何処へ行くにも最短ルートでの道順が数々の道標とともに思い浮かぶ筈である。
筈であったが、前職を辞してからもう十年以上経て、私の脳内の地図は綺麗に白紙となり、松島までの道順がどうしても思い出せない。
当日の朝になっても、まだ思い出せない。
自宅出発は朝の五時半だというのに、四時を過ぎてもまだ腕を組んで頭をひねっている体たらくである。
こうなってしまっては、旅の為の体力温存などと言っている場合ではない。数十分後に鳴るであろう目覚ましの音を聞き逃さない方法を考えるのみである。空はすでに明るさを湛え、鳥の鳴き声や新聞配達の音がやかましく、目覚ましの邪魔をして困る。
目覚ましが設定通りの時刻に鳴るのをこの目で確認したので、この古い目覚まし時計がまだまだ信用のおけるやつだということを確信できたのは収穫であった。
私の中ではまだ昨日が終わっていないのだが、いつの間にか今日が始まっている。おかしいじゃないかと言ったって、誰が対処してくれるわけでもない。理不尽さこそが世の中というものだ。また、おかしいことがすべからく理不尽だという理屈も成り立たないような気もする。成り立たないことを嘆いたところで物事は前に進まないのだから、ならばそういう事は考えないほうがよろしい。そういう事を延々考えている私は、多分恐らく大変にものすごく眠いのだろう。
外に出ると、空は明るいがそれほど晴れているわけでもない。かと言って降っているわけもない。長い道行にはいささか不安な雲行きであるが、「曇っているから今日は行かない」と断りの電話を入れるわけにはいかない。
さて、愛車のエンジンに火を入れてから考える。松島へ行くには、以下の方法が考えられる。公共機関を・・・。
気が付くと私は松島へ着いていた。時間はまだ六時半である。五大堂を右手に見ながら、平日だというのにまだ眠っている奴らがいると思うとむしゃくしゃして遣り切れなくなり、そいう輩の目を覚まさせるためには一体いくつの方法があるのだろうかと考えていた。
私が三十分も前に待ち合わせの場所に到着したというのに、ベイチさんはまだ来ていない。
ひょっとしてまだ布団の中にいて、悪夢にでもうなされているのではなかろうかと考えると、少し清々した。
ややあって、それでも待ち合わせの時間よりも余程早くベイチさんが登場した。まだ私の頭の中では悪夢にうなされているはずのベイチさんであり、その晴れやかな顔を見て、今度は少しガッカリした。

釜石市へは、国道45号線のみを走って行くことにした。途中有料道路を利用することもできるが、そうすると時間は短縮できるが、あまりに早く釜石市へ着いてしまう。また、その有料道路は無料区間などもあり、そこでは交通渋滞も想像できる。
早く着くのも嫌だし、渋滞も嫌だ。別に釜石市へ行くのが嫌だというわけではない。行きたくて行くのに、その「行く」という気持ちをあっさり終わらせたりヤキモキさせられたりするのが嫌なのである。せっかくたまに出来た「無駄に使える時間」を有意義に無駄に使うことに重点を置きたい。それには、道路事情などの外圧にも似た妨害は無い方が良い。
「震災の爪痕などを堪能しながらゆっくり行こう」
これが二人の共通の意見であった。
車の所有者のベイチさんが運転席に座り、必然的に私が助手席に乗り込む。
ここににわかに先生とその助手という構図が出来上がった。私の体はひりりと緊張感に包まれた。
かつての明智小五郎と小林少年、クナシリ博士とハボマイ助手らに見られるとおり、時に助手と言うのは八面六臂の活躍を求められるのが常である。当然、ここの読者諸兄に置いても、私の大活躍を期待していることであろうと容易く想像できる。勿論私も、すわやという場面では機敏なる態度で事態を収束させる準備がある。
ドライバーの陰嚢が破れた、ドライバーの陰嚢がクマンバチに刺された、ドライバーの陰嚢がヤマカガシに咬まれたりした際には、はっしとハンドルを受け取る所存である。ただ、ドライバーの恐ろしく小さい陰嚢にそうそう都合よくストライクを決められるクマンバチやヤマカガシがいるものかどうか。
いやいや、油断は禁物である。

さて、ゆっくり行こう、と決めたはずなのに、素敵車の足が速い。前方を行く車にあっという間に追いついてしまう。とんでもないことだ。これでは我々の計画が台無しになり、ひいては釜石行きも中止しなければならないかもしれない。
「どうでしょうベイチさん、ここはひとつ車のシャフトをへし折るなどして速度調整を試みては」
「いや、前の車が遅いんだ」
「前の車の事を言っているのではありません。この車のシャフトを折ろう、と言っているんです」
「後ろの車に気を遣っているんだよ」
「後ろの車に気を遣って、前の車には気を遣わないという理屈はおかしいです。やはりへし折りましょう」
道路とは公共のものであるから、神経や気遣いは前後左右全てに向けられるべきであり、(後続車に迷惑なやつと思われるかもしれない)という心配のツケを一方の対象にだけ向けるのは不公平である。やはりシャフトを折るか、フロントガラスを叩き割るしかないと思えるが、こういう考えも私の独善的なものかもしれず、ならばそのツケを素敵車にだけ向けるのも不平等なのか。
ドライバーの陰嚢に何の異常も見られない現段階では、私があえてハンドルを握る理由は無いし、もしそれを申し出たところでベイチさんは、「またいつもの気まぐれだろう」として取り合ってもくれまい。ましてや今、ベイチさんは絶好調の顔をして運転している。
私は黙ることにした。私が黙っていようと喋っていようと、素敵車は釜石市へ向かう。現状、それでよいとする。それで私が助手の役目を放棄したということにはならないのだが、いささか助手としての自信が揺らいできたのも確かであった。もう助手の役を辞して、後部座席で深い眠りに似た瞑想にでもふけるべきなのではないかとすら思った。だが、私がいかに殊勝な気持ちでそうしたとしても、きっとベイチさんは誤解して私の両瞼を切り落とすくらいのことはしてしまうだろうから、気持ちを新たに立て直して助手の任を全うすることを誓った。

国道45号線は多分何かの順番で45番目であろうと思われる。出来た順番か、計画された順番か、長さかは知らない。先の津波のせいで悪路になってしまったが、それでも45号線の名前が変わっていないので、使用されているアスファルトの量が45番目と言うことではなさそうだ。
昔、仕事で良く走っていたころには全く気が付かなかったが、今こうして走ってみると初めて気が付くことがあるだろうかと思って見たが、それも特に無く、ただもう45号線は45号線のままであった。
時折休憩をまじえながら南三陸町へ入ると、さすがにこの辺は道路の補修が完全とはいかず、迂廻路などがそちらこちらに設けられている。その迂廻路に入る度、道を逸れてしまった感じに襲われた。
そして、応急処置の鉄板製の橋を渡ると、そこはかつての志津川町であった。
志津川町には何もなく、さながらいつか写真で見た戦後の東京の焼野原のようだった。
補修工事の作業員と、被災地観光ツアーのバスだけがいた。作業員は見るからに疲弊しきっており、観光客はバスから降りることも無く、ただ窓に群がって写真を撮っているばかりである。
我々は素敵車を降り、ベイチさんは写真を、私はビデオを撮影した。私の記憶の中にある建物は全く無くなっており、どこか知らない土地へ来たようだった。そういう目で見れば、これは自然の力によって創られた芸術作品であると思われた。人間が営々と積み重ねてきたものを、僅か数時間で舐め取って出来上がった荒涼としたこの風景は、どんなに資金をかけても作ることはできないし、人の命まで吸い込んでいる凄みも相まって、もはやある種の芸術の到達点でもある。
その後、本吉を通り、気仙沼へ着いた。まだまだあちこちに残骸はあるものの、一年前よりは大分マシな様相になっている。一時話題になったタンカーももはや姿が無かった。実はタンカーを見るのを楽しみにしていたので、少々残念だった。だがそれはこちらの勝手な都合。私の都合に社会が付き合ってくれたためしなど一度も無い。
松島から気仙沼までは結構な距離なので、そろそろベイチさんに疲れが現れるころではあるまいか。私がドライバーなら、とっくに職務を放棄している頃である。実際、前の職の時も仙台から気仙沼まで行くと、もう仕事をこなす気など綺麗に消え失せていたものだ。
だが、彼には全く疲れた様子が見られない。まるで、私にハンドルを握らせることを拒否しているかのようだ。私は黙って助手の任を継続させることに決めた。
気仙沼から釜石市への道中には、大船渡市がある。こちらもなるほど酷い。ただ、先の気仙沼でも後に着く釜石でも思ったことなのだが、此度の津波被害では、同じ市内でも沿岸部とそうでないところとの被害の差が大きい。それは私の店の周辺でもそうなのだ。私の店から数キロ海へ向かったところは被害甚大だが、それ以外は結構マシな状態なのだ。テレビやネットの動画では、まるで街が一つ消え失せたかのような印象を受けるが、それが案外そうでもないのである。恐らく、ツアーの観光客などはその辺りの実感が強いのではないだろうか。もっとも、だからと言って何でもなかったということはないし、消失したものも決して小さくは無いのだ。

釜石市へ着くと、急に天気が良くなった。出掛けには曇っており、途中では雨も降った。しかし、釜石市は晴天であった。
もうじき二年ぶりに掃苔氏と会える。掃苔氏は一体どんな所に住んでいるのだろうか。彼の性格や好みを考えると、きっと竹藪に囲まれた質素な東屋的な苔むした庵なのではなかろうか。そこに少しの家具と少しの本と共に暮らしているのだろう。犬か猫がいるかもしれない。釜石市という土地を考えれば、周囲には古く錆び崩れた鉄工所の跡などもあるかもしれない。蝉が鳴き、風のそよぐ音、川のせせらぎなども聞こえてくるだろう。出迎えてくれる掃苔氏はにっこり笑って、白磁茶碗に冷たいお茶など淹れて、スイカの一つも出してくれるのだろう。我々のお土産は喜んでもらえるだろうか。ベイチさんのお土産は、放射線がダダモレした海で捕れた魚を加工して作った蒲鉾で、私のは放射線が降り注ぐままに任せた無洗浄の無農薬・化学肥料未使用野菜詰め合わせである。どちらも体に良いのか悪いのか分からないが、食べて美味しいことは間違いない。老い先短い独居老人にはうってつけのお土産と言えるだろう。
さて、住所と地図を頼りに辿り着いたのは、普通の民家が立ち並ぶ住宅街であった。竹藪も鉄工所も無い。こんなはずはない。もしや助手としての私のネビゲィトに何らかの間違いでもあったのか。何度調べても、住所はここであると示している。しかしそこには、古い鉄筋の4階建てアパートがあるだけだ。苔むした湿っぽい階段に備え付けられているポストの表札を見ていくと、そこに確かに掃苔氏の名前があった。
迎えてくれた掃苔氏は、かつて古本屋を経営していたころよりも血色が良く、動きも俊敏であった。ひょっとして生活が苦しくて、野山でウサギやイノシシなど追っているのだろうか。もしくは、私はベイチさんから解放されて、精神的な重荷を下ろすことが出来たためだろうか。
掃苔氏はニコニコ笑いながら、普通に冷たい缶コーヒーを一本だけ出してくれた。部屋を見渡すと、大きな仏壇のほかに、パソコンと地デジ対応の大きなテレビがあった。犬も猫もいなかったが、開け放した窓を自由に出入りしているハエがいた。
「スイカは無いのかな」
と聞こうとしたが、「スイカは深夜にならないと捕りにいけない」などと言われるかもしれないので、あえて所望しなかった。
二年ぶりに旧交を温めあったのだが、その実話題はいつもの下世話なものばかりで、レターパックで現金を送っても大丈夫とか、同業者を騙して大儲けをしようとかで、郵政省や警察や同業諸氏が聞いたらさぞやがっかりするだろうと思う。
3時間ほどで掃苔庵を辞した。
帰り際、「レターパックで現金を送れるんだからね」と念を押された。いつか本当に送ってみようと思った。

帰り道は、45号線を通らない。
遠野市経由で一関市の国道4号線に出て、大崎市(旧・古川市)から松島へ戻る。
釜石市を出るときに、かつて釜石の山中にあった錆びだらけの建物群を見たいと思った。それはベイチさんも同じで、昔見た恐るべき風景にもう一度触れたかった。
しかし残念ながらそれらの建物はすでに撤去されており、一つだけポツネンと錆びた鉄板があるだけであった。これも震災の影響と言えるのかどうか。その辺の事情が分からないため、的確に悔しがることも出来ずに、ただ無念だった。
遠野市から一関市まではひたすら山道だ。山の中に、ぽつんぽつんと集落がある。その家々は、背後や周囲にまで木々が覆いかぶさり、見るからに自然の一部然としている。まるで山が人間の営みを飲み込む寸前のように見える。あれでは、家の中にまで獣や虫が入り込んでくるのではないだろうかと思う。ああいう怪しい状態の中で暮らす人々の日常を想像しようとするが、なかなか出来ない。出来ないから、不安感とも恐怖感とも違う、現実的な寂寥感にばかり襲われる。
日が暮れる直前に、前沢町の商店街を通った。古い橙色の照明の中で商いをする商店と、生活の一部を完全に商店に密着させている風情の客の姿が、なんだかとても愛おしく感じた。あの山の中で暮らしている人々は、こういう風景の中に溶け込む機会があるのだろうか。
前沢町を抜けると、いよいよ日が暮れた。遠くの山の麓に、小さく生活の明かりが灯っていたのを見た。

我々が通った道を線でたどると、ちょうど「涙の滴」の形のようであった。それが今回の道行を象徴するのかというと、どう考えてもそんなことは無く、ただの偶然である。もしも無理にこじつけようとするならば、道中立ち寄った数件の古本屋で私が買った本の殆どが愚にもつかず商売にも役に立たぬものばかりだったという事になろうか。
素敵車は全く問題無く仕事を全うした。軽自動車なのに乗り心地は良いし、パワー不足も感じさせなかった。
なるほどこれなら、中古車屋へ叩き売ったとしても5万円は下るまい。
ドライバーのベイチさんは陰嚢に異常も起こさず、完走しきった。
助手の私だけが楽をしていたようだ。
皆さんも、旅のお供にベイチさんを選べば、ことほど左様に楽が出来ることを知っておくと良いと思う。
posted by 肉王 at 16:22| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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