2013年07月13日

アシタクルノカ

やあどうも。

いつの間にか、右側にあったツィッターの表示欄が無くなってますね。特に設定をいじったわけでもないのに、何故なんでしょうね。不思議です。
不思議と言えば、昔ながらの古本屋は、何故にカウンター(帳場)が店の奥側にあるんでしょうか。
かく言う当店も、カウンターは店の奥にあります。これは、先輩諸氏の店の作りを真似たので、その当時に確固たる理念があって奥に配置したわけではありません。
その辺を意識して他のお店を見てみると、最近の店はカウンターを店の出入り口付近に設置しているところが多いようです。
一方、古本屋に限らず、カウンターが奥にある店と言うのは、昔ながらの商売が多いようです。
カウンターが奥にあるか出入り口にあるかで大きく違うのは、一体何でしょうか。
瞬間的に思いつくのは「間口の広さ」なのですが、これは古本屋を基準にしての感想なので、他業種について当てはまるかどうかわかりません。
もう一つ思い浮かぶのは、昔ながらの商売は店舗と住居が一体になっているところが多いように思いますが、これが何か関係しているような気がします。
仮に、(何処でもいいのですが)何処かの古い商店街を想像してみてください。そこは通り沿いに沢山の店が並び、お隣やお向かいとの連携を考えた商売になっています。魚屋の隣りに八百屋があり、肉屋がある。床屋もあり、文房具屋、本屋、クリーニング屋、喫茶店、パン屋、時計屋、衣料品店、布団屋、電器屋など、生活の上でいつかは必要なお店が並んでいます。
商店街と言うのは、限られた距離の道路沿いに沢山の店を並べる必要があるので、必然的に一軒ごとの間口は狭くなりがちです。そのため、建物は細長くなり、商人たちの住居は店の奥と上に伸びていくことになります。住居が店の二階になる場合はともかく、店の奥が住居の場合、必ずどこかに店と住居の境目が出来ることになるのですが、古本屋の場合は、どうやらその境目に帳場を置くことが多いようです。
他の商売はともかく、古本屋と言うのは、店主の生活と商売が完全に分離することがあまり無いように思います。その理由として、目立って時間のピークが無い、というのが一つ上げられるかと思います。行列ができることは有り得なく、むしろお客が来る方が少ない。そうなると、本来は生活の為に商売をしているのに、いつの間にか生活のついでに商売をしているような感覚になって、店と住居を行き来することが多くなっていきます。かくして帳場が店の奥というより住居の入り口に設置されることになる、というのは間違いでしょうか。
もう一つ考えられるのは、店の奥が住居兼作業場や倉庫代わりになっているため、行き来を楽にする意味もあるかと思います。むしろこちらの方が正解に近いかもしれません。
最初は、店主のそばには高額商品を置くからかと思っていたのですが、それだと無理に帳場を奥にする必要がありません。せいぜい、万引き犯が逃走する際に出口までの距離を稼ぐ意味しか見当たりません。それとて、奥に帳場を設ければ入り口付近の本を取られた時に、店主のスタートダッシュが遅れるデメリットの方が大きいわけですから、万引き対策としては矛盾を抱えることになります。
もう一つ、これはごく限られた店にだけ言えることだと思うのですが、犯人を追うという発想ではなく、全く逆に、店主自身が犯人として追われる際に逃げやすくなっているという考え方もあります。店先に官憲の姿を確認するや否や裏口へ向かって駆け出す時には、帳場が奥にあった方が僅かでも距離が稼げるわけです。
もっとも、特に理由など無くても古本屋の帳場は奥にある方が店そのものの迫力が増してとても良いように思います。時折、先輩諸氏のお店に伺うことがあるのですが、この道何十年とか、創業から百年以上などのお店の大迫力にはいつも言葉を失ってしまいます。
私などは今年でようやく13年。13年やっても、今なお頭が混乱するほど分からない事ばかりです。本の数は無限と思えるほどあるのに、それらを駆逐するには能力も時間も資金も乏しく、全く手に負えません。とは言え、船乗りが「海は手に負えない」と言って陸で呆然としているわけにはいかないように、とりあえず北でも南でもいいから漕ぎ出していかなければいけません。
ああ、でも船長、帳場がもう浸水していて手が付けられません。かくなる上は、荷を捨ててとりあえず身軽になるか、さもなくばいっそ他の船を分捕って乗り換えるか。
posted by 肉王 at 02:17| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月12日

アシタモアルカナ

やあどうも。

言葉というのは難しいもので、伝えたいことを説明しようとして幾重にも重ねていくと、余計に伝わらなくなってしまうものです。かと言って、慎重に言葉を選んで話そうとすると、本音を隠しているととられてしまい、これまたうまく伝わらなくなります。
例えば警察で調書を取られる羽目になったとします。
「なぜあの家に忍び込んだんだ」
という取調官の問いに、
「ゼニが欲しかったんや」
とだけ答えても、取調官の荻村巡査長は納得してくれません。
「なんでカネが欲しかったんだ」
「遊ぶゼニ、飯食うゼニ、借金返すためのゼニが欲しかったんや」
「そんなもん、真面目に働いて稼がなきゃだめだろう」
「せやけど、この歳ではどっこも使うてくれへんし、職探しもメンドくさいし」
「まったく、どうしようもないクズ人間だなお前は。で、カネの使い道は具体的になんだ」
「パチンコ、ソープ、吉野家、サラ金の返済ですわ」
「そんなもんの為にチンケな空き巣をしたってわけか」
「そんなもんでも積み重なりゃあ、結構なもんですさかい」
「それで一生シャバと刑務所の往復してるんだから、全くもって理解に苦しむよ」
動機を問われて「ゼニですねん」と答えて一件落着のように見えても、荻村氏はわざわざ自分の理解を超えるところまで話を膨らませ、やっぱり理解できないといって首を振るわけです。
あるいは、夫婦間でよくある浮気の喧嘩などもそうでしょうか。
「あなた、なんで浮気なんかしたのよ」
という妻の厳しい問いに対し、夫は言葉を失います。
「黙ってたら分からないじゃない」
妻は攻撃の手を緩めず、夫をリングサイドに追い詰めようとします。
実はこの時、夫の中にはれっきとした答えがあるのですが、それを言ってしまっては身も蓋もないので、せめて身か蓋のどちらかをフライパンか炊飯ジャーにできないものかと無意味なことを考えています。
もしこの時、夫が意を決し、あるいは開き直ってしまったらどうなるか。
「わかりました。率直に言いましょう。私は射精行為が好きです。しかし妻であるあなたは私との性交を拒みがちでありました。故に私は妻であるあなた以外の女性を相手にして射精したかったのですゾナモシ」
ゾナモシの部分にやや夫の動揺か、あわよくば笑って済ませたいという微かな希望が見え隠れしますが、妻にとっては火に油を注ぐ行為に他なりません。それは、巌流島の真剣勝負の最中に宮本武蔵が「俺って右利きなのに、チンコが左向きなんだぜ」と言うに等しい、卑怯な行為となってしまいます。
妻の漠然とした「何故」という問いに対して、夫はご丁寧に三段論法で「射精がしたかったから」と答えた訳ですが、この結果がどうなるかと言うのは考えるまでもありません。夫よりも弁の立つ専門家が間に入り、三段論法的慰謝料請求の憂き目にあうことでしょう。
と、ここまで読んで、「今日のテーマは言葉?」と思われた方も多いでしょうが、残念でした。
今日のテーマは「射精の種類」です。
じゃあ、最初の取り調べのくだりは何だったのかと思うでしょうが、それは私が聞きたいことです。

さて、世の女性たちは自分の彼氏や夫がエロ本やAVを鑑賞することは浮気とほぼ同じだと考えているそうですが、それは一体何故なのでしょうか。
一方では女性たちが自分の彼氏や夫を投げ打ってアイドル歌手や韓国の俳優に人目をはばからずに嬌声をあげる現象があるわけですが、それらとエロ本やAVはどれだけの違いがあるのでしょうか。
外野から見た現象としては、ほぼ同じであるにもかかわらず、恐らく女性たちは「それは自分たちが浮気じゃないと思っているから問題ないの」というようなことを答えるでしょう。
女性たちにとっては、自分たちが認めるか認めないかが大事である反面、男たちが同じ理由でエロ本やAVに没入しようとすると、「その解釈は自分勝手で理解できない」と思うことでしょう。
それは、「事の白黒を判断するのはあくまでも女の側である」と言っているわけで、では何故その判断を下す主導権が女性側にあるのかということを論理的に説明しては貰えません。
私はそれがずっと疑問で、例えばドライブでの道順やパソコンの設定、夕食のメニューなどでは問答無用でこちらへ主導権を渡してしまうくせに、こと射精の件となると、こちらの論拠には一顧だにしてもらえません。
そのようなことが積み重なり、時には「貴様に俺の射精の何が分かるんだ!ええおい!卒業卒業と言うけれど、一体何を卒業すればいいんだろうか!俺の話を聞いてくれよ!笑い飛ばしてもいいから!」と息巻いてしまったこともあります。
思うに、男の射精にはいくつかの種類があると思うわけです。
実際に肉体を相手にしての射精(1)、架空の対象を相手にしての射精(2)、疲労や精神錯乱下における混乱的な射精(3)と、大別すると恐らくはこの三種類になるのではないでしょうか。
(1)は主に肉欲と呼ばれるもので、この際には相手や射精の回数と場所が問題となります。
(2)は単に性欲と呼ばれるもので、抜いた刀を鞘に納める儀式に近いものです。
(3)はどう表現していいか分かりませんが、肉欲と性欲が混在している若年期の失態ではないでしょうか。
女性がどこまで歩み寄ってくれるかは分かりませんが、多くの男は(1)と(2)をTPOによって使い分けています。同じ射精でありつつも、(1)と(2)の間には大きな隔たりがあります。多分、キリスト教と唐揚げ弁当ほどの差があると言っても過言ではないでしょう。そして、どちらも等しく価値のあるものでありながらも、用途の違いから同じ物差しで比較できないため、両者が同居することは有り得ないものなのです。
さらに細かく言うならば、(1)の中にも細かく意思の発露があり、相手はどうあれ何回射精するか、その際、どこに射精するかによって男の中での相手の立ち位置が変わってくるのです。多くの真っ当な男は、相手に対してリスペクトがあるので、例え風俗嬢相手でも女性本位の射精を心掛けます。何時でも何処でも誰とでもと言うわけにはなかなかいかないのです。実はこれは相当なストレスです。ましてや相手が恋人や妻であればなおの事です。
そんな射精にいつしか少し心が疲れてしまって、吉田拓郎の音楽をポケットに入れて旅に出るしかないんじゃないかと思いつめ始めるとき、男はエロ本やAVにもたれかかります。
「射精ってもっと自由でいいんじゃないか」
そう思った時、ふと立ち寄ったダブルエックスで手に取ったAV。パッケージの中で笑う橘梨紗。この時、男の頭の中に射精の相手はいないのです。いうなれば、すき家で新メニューを見た時の感覚でしょうか。食べてみなければいけない理由は無いけれど、何かは食べないと明日に向かって走れない。射精しなければいけない理由は無いけれど、明日の射精の為に今夜の射精は欠かせない。これつまり、飯を食うためのオカズに他なりません。飯を食うとはつまり、(1)の射精の事です。
実際問題として、男にとっての射精は結構どうでもいいことです。射精そのものにほとんど意味はありません。だから四六時中射精していてもいいですし、全くしなくてもいいものです。抜いた刀を鞘におさめず、投棄してもいいのです。そのどうでもいいことを女たちは「自分以外を対象にしての射精は浮気である」とあげつらっているわけで、これは男にとっては全く言いがかり以外の何ものでもありません。もっと残酷に言えば、射精をしている瞬間、男に心はありませんから、男の射精が自分に向かっているからといって男の心も自分に向いているなどとは思ってほしくありません。ましてやエロ本やAVを相手にして、心がどこにも向かっていない瞬間をとらまえて浮気だと言われても、まるで身に覚えがないと言わざるを得ません。
さて、長々と射精射精と書いてきましたが、現在私は(3)の状態にありますので、以上の内容について文責を負いません。
おやすみなさい。
posted by 肉王 at 02:58| Comment(7) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。