2016年08月12日

自殺教室で生まれた死生観(2)

(1)を書いてから4か月も経ってしまった。
遅れてしまった言い訳をした方がいいのだろうか。
実は(1)の記事を書いた日に熊本の大地震があって、そんなさ中に人の生き死にの事なんか書いてもいいのかな、などと考えてしまって、じゃあまぁほとぼりが冷めるまで少し待とうか、シメシメ・・・というわけでございました。

そもそも、死生観などという大袈裟なテーマを持ち出したのが悪かったのである。
これは、アルミ缶を拾いに行くくせに、帰りにはベンツに乗ってこようという身の程知らずな行為に似ている。勿論可能性はゼロではないけれど、わらしべ長者じゃあるまいし、そんなうまい話があるわけないだろう。もしあったとしたらそれは、夢か、泥棒をしてきたか、もともとベンツで出掛けたかの場合だろう。
これから語る話が、夢でおわるか泥棒じみて話にならないか、あるいはベンツに大化けするか分からないが、ぼちぼちと進めてまいろうか。

人は誰でも、死を考えているらしい。
日頃勝手気ままに生きているように見える人も、しょぼくれてうつむいている人も、おおよそ例外なく自分の死や他人の死について考えているようである。
世界が始まって、人類が思考を持つようになって何年経つのか、そしてこれまでどれだけの人間がいたのか全く分からないが、それらの人々が皆、それぞれに死について考えて来たのを時間や質量になぞらえると、どういう数値になるのか。それをアルミ缶に換算するとどのくらいになるのか。多分ベンツ一台は楽に買えることであろう。
ところが、死については考えても考えてもなかなか答えが出せず、ただ未知なるものへの畏怖から「忌み嫌うべきもの」だったり「明日への課題」だったりと、投げやりに扱ってきたようである。優れた哲学者や宗教家などはある程度の答えを持っているようだけれど、それらをいくら聞いても読んでも釈然としないものだったりはしないだろうか。
我々、あるいは俺の理解力に問題があるのだろうけれど、それ以外にも、彼ら(特に宗教家の人々)の語る死生観のベースが、世界全体の人をひとくくりにしているようなので、対象が大きすぎてイメージがわかないという事があるような気がする。
もっとコンビニエンスな感覚というか、個人に寄り添った規模で話してはくれないものかと思うことがほとんどだ。
俺は、死を考える前に、生を考えてみたいと常々思っている。
それは、生きることを前提にしたいというわけではなくて、死ぬことを前提にして、生き方を決めたいということだ。
自分はどこでどういう風にして死にたいのかを決めれば、そこから逆算して生き方も決まってくるのではないかということだ。
病院のベッドで死にたいのか、自宅で人知れず死にたいのか、戦場でハチの巣になって死にたいのか、山中に不法投棄された冷蔵庫の中で死にたいのか。人それぞれに希望はあるはずである。おおむね希望通りになんか行かないだろうけれど、それでも希望の死に方があれば、日頃の行動だって多少なりとも変わってくるはずで、それが自分の生き方になっていくのではないかと思っている。
そんな後ろ向きな生き方があるか、と怒られるかもしれないけれど、そもそもここに辿り着いてしまった人々は、どうしても前向きに生きられないから、「生き方が分からない」とか「生きていても死んでしまっても同じにしか思えない」とか「生きる理由が無いとしか思えない」などと言って自殺をしてしまおうとしているわけなので、それらの人に前向きに生きる方法を享受できるなら、それを教えてやってくれと言いたい。

言葉のイメージというのは恐ろしいもので、「死ぬ」「落ちる」「損をする」「後ろ向き」「病気をする」「失くす」「騙される」「泣く」「暗い」「孤独」などというマイナスイメージの言葉が「悪いもの」として認識されてしまう。
もっと言えば、悪いものが何であるのかを考える前に、悪いものはイコール悪である、悪はイコール駄目なものである、駄目なものはイコール価値のないものである、価値のなものはイコール存在してはいけないものである、と直結されている。
俺はどんなマイナスイメージの言葉でもそれは不必要なものとは思わないし、価値のあるなしで物事を図ろうなどと思いあがったりなどしたくない。
人は誰でも死ぬし、落ちるし、損をするし、病気もするし、泣いたり騙されたり、暗い気持ちの時もあるし、バースデーパーティーの最中でさえ孤独を感じるものだ。
それの一体どこが悪いというのか。それらに価値が無いと誰が言えるのか。
それらに価値が無いと言って自分から遠ざけたとして、そんな人には何よりも大きな価値があるのだろうか。そして生涯最後のまさに今まさに死ぬぞという時に、その人は無価値になってしまうというのだろうか。

既成の価値観というやつは恐ろしくて、特に理由も必要としないまま人々の心の奥底に潜り込んで、生き方のあれやこれやに指図をしてくる。法に基づいた正義であったり、社会に都合のいい道徳には、疑問や異論をさしはさむ余地がなく、そこからはみ出そうとしたり落ちこぼれてしまったり理解できない人々に対して、容赦ない制裁が待っているように思わせてくる。
実際には思ったほどの制裁もないのだけれど、そこに植え付けられた恐怖感は絶大である。
勿論、集団や社会の中で生きようとすれば、法律や道徳は必要なものだが、その集団から外れてしまえば、それで人生が終わるというようなものではない。終わるとしたら、その集団で育まれた価値観を捨てきれないせいである。
もしも僅かの勇気があれば、その既存の価値観を捨てて、新たに自分の価値観を築けばいいのであって、その結果自分が「失った」「孤独になった」と感じたとしても、今度はそれを抱えても重荷に感じないような価値観を持てばいいのである。
それにはどのくらいの勇気が必要なのかというと、いつも行っていたラーメン屋をやめて、隣の牛丼屋へ通い始める程度の事だと思う。
そんな簡単な事のはずがないと思う人は、多分邪険にされつつもまだいつも通りのラーメン屋に通っているか、店主の目が届かない隣町のラーメン屋を探さなければならないと思い込んでいる人だろう。それこそが既存の価値観のなせる業であり、それに冒されてしまった心がいかに頑なであるかという証明だと思う。
問題なのは他者の目線ではなく、自分の心の在り様(ありよう)なのだから、自分がどこで何を食おうとも誰にも指図されるべくもないのである。
ここまで言っても「そうは言うけれど、社会というやつは・・・」と反論されることもよく分かっている。
けれど、こんな簡単なことにさえ異論を唱えて、現状の集団にしがみつこうとする人に対する言葉を俺は持っていない。
1+1は2だが、3−1だって2になるのだ。損得勘定ばかりしていては、足し算ばかりに気がいって、引き算を毛嫌いしてしまいがちだ。そういう人には引き算や割り算を薦めることは出来ない。そして俺は、それ以外の演算方法が苦手だ。
いつも引き算ばかりではいつかマイナスになるじゃないかとも責められるだろうが、それは先に言った通りで、マイナスが価値のないものだとは思っていないので、どうだっていいことだ。
そのどうだっていいことで、人の生き死にを決めてしまったり、自分の人生を諦めて捨ててしまったりするのは、もうやめてくれないかと強く思っている。

今日のところはこの辺で終わりにしたいです。
店の中が蒸し暑くて、思考が空転してきました。
どうでしょうか。
ベンツは買えたでしょうか。
次回は損得勘定についてもう少し語ってみたいと思います。
posted by 肉王 at 02:35| Comment(0) | 自殺教室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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