2010年04月08日

見えてますよ、源さん。

やあどうも。

今日は面倒なところから始めますよ。
人称代名詞の設定です。
まず「オレ」。これは、このブログをいつも書き損じているワタクシのことです。
次に「キミタチ」。これはいつも使っている通り、このブログを読む読まないに関わらず、この世にうっかりちゃっかり生きている人々全般のことです。
そしてもう一つ「オマエラ」。これは漫画やアニメやゲームなどをこよなく愛しているくせにどこかでしくじってロリとかペドなどの要素まで取り込んじゃった人たちのことです(読みづらくても句読点で区切らないところに意味があるので我慢すること)。
最後にもう一つ、使うかどうか解らないけれど念のため「アンタガタ」。本当はオマエラと同じような趣味嗜好なのに、どうあってもそれを認めようとしない人たち。

最近、あちらこちらで騒がれているのが、東京都の青少年健全育成条例改正の問題。
「なんだ、東京だけか」
なんて油断したらダメさ。だって多くのの作家は東京に住み、出版や製作を行う会社のほとんどが東京にあるのだから、全出版・発行物が対象になるというわけだ。
「このエロゲーとエロ漫画は宮城県用に出版したものです」
という言い訳が通用するかというとそうでもないのだ。
創作に関わる人や企業、それらの創作物の顧客などから、強い反対の声が上がっている。当然オレも反対なのだが、創作がらみとか顧客がらみではなく、まったく単純に、どんな言論や表現であれそれを規制したり封鎖したりすることに反対しているからだ。
ただ、今回はそういう本流の話ではなく、ごくごく枝葉末節の部分の話だけをしたい。
真面目な話として知りたいのだ、という方はこちらのサイトへ今すぐ行ってしかるべき後に素早く戻ってきてくれ。まあ、そのまま戻ってこなくとも別に構わないけれど。

というわけで、この話題の時によく挙げられるのが「この法案が通ったら、藤子不二雄のドラえもんもアウトになる」という例だ。
ドラえもんに限らず藤子不二雄の作品については、オマエラが昔からねっとりと語っていたように、少女のヌードがよく描かれている。
だから「法案の行方次第では日本の名作ドラえもんですら姿を消すということなのだ、それでもいいのかキミタチ」というのが反対派の一つの意見となっているのだ。
まあ確かにドラえもんにはしずかちゃんの入浴シーンがたびたび描かれているわけで、オマエラの中にはそれを美味しく頂いちゃっているのがいるのかもしれない。
先日聞いた議論では、女性の漫画評論家が「あのシーンは藤子不二雄が読者サービスとして描いているんですがね」と言っていた。
そこでオレとしては少し疑問が生じた。
あれは読者サービスだったのか・・・?
ひょっとしたら女性から見る女性のヌードと言うのは、全て男性向けサービスとしか感じられないのではなかろうか、という疑問がわいたわけだ。
そもそもドラえもんを読み始める年齢と言うのは、男女ともに小学生の低学年辺りからでなないだろうか。そして、中学校へ進学する辺りまで熱心に読むのではなかろうか。勿論オマエラは40歳になろうと50歳になろうと「使える・・・ニヤリ」と思っているだろうが、そういうのは一般的な解釈では中々通用しないからオミットさせてもらう。
で、その年頃にとって、あのしずかちゃんの入浴シーンというのはどんな意味があったのかを考えてみた。
まず、あれを見て「性描写である」と思う人はいないだろう。入浴行為が性描写と認識される世の中だったら、それは世の中のほうが狂っているとしか言いようがない。
では単なるサービスカットなのかというと、あながちそうでもないとオレは考える。
しずかちゃんの入浴シーンが出てきた場合、多くはその後にのび太が登場するとか秘密道具のとばっちりを食うなどのストーリー上の展開が用意されている。オレは全45巻+長編+カラー版+プラスシリーズを読んできたが、記憶しているかぎりでは単純に入浴シーンだけを描いたシーンを見たことがない。
「何もこんな時に」とか「こんな時に限って」などの場面でしずかちゃんはお風呂に入りたがったり入っていたりするのだが、それらは全てしずかちゃんの性格付けのために盛り込まれているエピソードだった。
だからしずかちゃんは、のび太やドラえもんに入浴を邪魔されるたびに厭な顔をしたり激怒したりするのだ。
あれが単なる男性向けのサービスシーンならば、しずかちゃんは思惟的に「恥じらいの姿(顔)」になっているべきなのである。しかし、しずかちゃんはそういう男性に媚びる姿勢は一切とらないのだ。
実はここで男子小学生は一つ学んでいるのである。
基本的に男子小学生というのは、性的に未分化である。なので、ちょっとエッチなシーンなどに出くわした時に反応する我がポコチンに、大いなる不安を抱く。大人になると、ヒトカドのシーンにも反応しなくなって不安になるのだが、それは今回関係ないだろ、なんなんだキミタチは。当然、しずかちゃんの裸にも反応することがあるのだけれど、その時だってやはり不安なのだ。
「なんでチンコ勃っちゃうの。オレの体、病気なのか。でも一方でこの嬉しい気持ちは何なの」
そんな気持ちで次のコマを見ると、のび太が舌を出してニヤニヤ笑っている。そこでふと安心する。ああ、なんだ、のび太ですら女の子の裸に出会ったらあんな反応をするのか、と。
しずかちゃんにとっては全く迷惑この上ない話なのだが、このシーンで救われた男子小学生の数は相当数に上るのではないかと想像する。
そしてまた、しずかちゃんが怒ったり厭な顔をして不快感を露にする事で、女の子にとってはお風呂を覗かれることはとても厭なことなのだということも合わせて理解する。
親も学校もろくに教えてくれない生理的なことや異性の気持ちを、藤子不二雄はたった数コマで的確に教えてくれたわけだ。
確かに女性の視点から見れば、ただのサービスカットにしか思えないかもしれないし、何も考えなければ意味のないカットかもしれない。だが、ドラえもんにおけるしずかちゃんについては、そういう役割を担っていた側面があることは理解していただきたい。
こう解釈すれば、キミタチもオマエラもアンタガタも、今回の法案に対する議論の材料としてドラえもんを持ち出されることが、何か的外れな感じに思えてこないか。勿論オレは思っている。
そもそもドラえもんが違法か合法かを議論せざるを得ないような法律など、あってはならないのだ。なのに、大の大人たちが(主にオマエラとキミタチ)口角泡を飛ばし、しずかちゃんの入浴シーンが是か非か言い争うなんて、そんな国に文化など育つものか。
だが、所詮は漫画だ。もしも法案を通そうという勢力が強ければ、ドラえもんなど一ひねりだろう。かつて清岡純子が芸術写真家から児童ポルノの代表格に貶められた時のように。

意思や意見を持たずに主張だけする世間の活動家たちは、自らが発している言葉の一つ一つが人でも心でも文化でも何でも壊せる邪悪な武器であることを知らない。
子供を守れと言う美辞麗句を繰り返して手当たり次第に武器を振り回す行為が、自らの責任感の無さと教育や躾の能力の低さを露呈していることに気付いているのだろうか。
もしも本気だというなら徹底的にやってしまえばいいとも思う。
18歳未満の人間の裸が教育上に相応しくない汚らわしいものだとそんなに思うのならば、仕方が無いじゃないか。

世の中には、18歳未満の人間に性行為をさせているものなど沢山あるのだから、その一つ一つを潰しきってしまえば、そりゃあきっと素晴らしい世の中になるのだろう。日本国憲法だって「有り得る」としている16歳の女子による婚姻や、あるいは、昔から教科書に載っている「源氏物語」ですら、漫画にした途端に規制対象に指定できるだろう。
我が子の無菌教育のために、性的なものを一切排除したいとか、自分の主義主張にそぐわないものを根絶やしにしたいと思っている人たちには、目的達成のための対象は有名であればあるほど効果的なはずだ。
そうやって真っ白な世界を作り上げて、頭も心も都合良く真っ白な人間を作ってくれればいい。
そうなったらオマエラやアンタガタや一部のキミタチだけが独占できる文化が出来上がるかもしれない。
その世界では、何だか怪しげな古本屋のオレなど大儲けできそうだ。
オレはオマエラのようにはなれないけれど、それでもオマエラが何を欲しがるかは良く知っているつもりだ。
ええ仕事しまっせぇ。

ええ仕事、で思いついたのだが、宮城県はこれを契機に「漫画・ゲーム特区」になればいいのじゃないかと思う。
別に「エロ漫画・エロゲーム特区」でもいいけれど、一地方自治体がまるっとエロ特区では決まりが悪い。
昔から宮城県ではいい漫画家が育つ。
有名どころでは石森章太郎や大友克洋や荒木飛呂彦などだが、その他にも大勢いる(一條裕子とか西川魯介とか坂本タクマとか)。それらが皆東京に移り住み、多額の税金を納めていることを考えると(一部そうでない人も混じってます)、何も宮城県出身の如何に限らず漫画家や出版社やアニメ関係やゲーム関係などのゼニになる文化を丸々頂いてしまえばいい。
東京都が追い出しをかけている今なら、チャンスがあるんじゃないか。特区になって法人税や作家の所得税などがっくり安くしてしまったとしても、もともと何も無いところから発生する税収としては余りあるものが期待できる。
漫画家なら、漫画家になりたいなら、漫画で食うなら宮城県さ行ぐべや。あそごでなら、エロもロリも有りなんだべ?オマエラもアンタガタもみんなパライソさ行ぐだー!ゼゼズさまー!

「しずちゃん!僕らも宮城県に行こう!」
「いやーん、のび太さんのエッチー!」
「・・・どうして君はいつも肝心な時に・・・」
posted by 肉王 at 02:45| Comment(12) | 戯れ言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月06日

次は誰だ

やあどうも。

キミタチは元気か。
オレは元気だ。
キミタチがどこでどう生きているか知らないが、満足しているか。
ちゃんと飯食って、眠って、家族や友人と仲良くやれているか。
言いたい事なんか全部言えないとしても、どうにかこうにか伝わっているか。
感謝の気持ちや愛憎の極みなどは、出来る限り言葉にしないと伝わらないものだが、それと同様に差別もちゃんと発言しないと伝わらないものだ。
差別したい相手や事象には、はっきりと大きな声で言わないと、中々相手の心の奥深くまでは突き刺さってくれないものだよ。
言ってやれよ。言い放ってやりなさいよ。バシーンとさ。

この喫煙者め!とね。

世界には多くの差別があり、それはもう厳然として、確固たる地位を築き我々の精神や暮らしを守っているのだ。
人権屋たちやそれに感化された暇人たちは、差別はダメだ、差別を無くせと声高に叫ぶけれど、人権屋たちが飯を食えているうちは差別など無くなりはしないのだ。故に彼等がこの世から差別を根絶することはないのである。だからキミタチも安心して差別をするがよろしい。なにせ人権屋にも人権があるので、我々が彼等の飯の種を奪うことは許されないのだ。

昔は差別というと、職業だとか出生・障害・病気・性別・民族など分りやすいものだったが(本当は分りにくいものもあるのだが)、長い時間をかけて一つ一つ差別の種を潰していったら、結果、数は減らずにむしろ余計に種類が増えることとなった。事は今や収入・学歴・言語・思想にまで及び、とうとう嗜好にまで食い込んできている。
人権屋とその影響下にある暇人たちは非喫煙者を守ろうとするあまり、喫煙者に対して差別を行い、日本国憲法すら逸脱しようとしている。
オレは元来、筋金入りの差別主義者であり、食えば食うほど飽きる野菜・紙質の硬いティッシュペーパー・すぐ絡まるパソコンのケーブルなど、多岐に渡って蛇蝎の如き扱いを施し、日々差別的な言葉を投げつけている。それについて今まで、良心の呵責など一切感じたことはないし、これからも益々盛んに差別をかましてやろうと決意している。
そんなオレだから、喫煙者だからという理由で差別を受けても一切気にしないし、またそれを係争の道具にすることもない。
お前らは好きなだけ差別すればいい、オレもするから。
そういうスタンスだ。
オレは生まれつき体が不具だから、長い間差別的な扱いを受けてきた。子供の頃には気にもしたが、今ではオレも差別対象を見つけたので自分が受けた分を野菜やケーブルに思う様叩きつけて憂さを晴らすことが出来るから安心だ。
差別を甘受してきた経験から言わせて貰うが、昔オレが受けた外観的な差別と、今の喫煙者に対するそれは、何も変わらない。
言動の根幹に差別感情がある(原因が煙草に対する恨みだとしても、発生する行為が生まれているのは感情からである)、という点で全く同じである。そのせいでか、オレは今、昔味わった悲しみと同じ感情を再び懐かしく味わっているというわけだ。

「かたわ」と言ってはダメだ、と思った人間たちが新たに「身体障害者」という言葉を作り上げた。然しそれは新たな差別用語を生み出しただけで(身障、という言葉には差別的な「感情」があるだろう)、非差別者からすれば至極迷惑だったことにも気付かないのは、言葉を作った人間とそれをヨシとした民衆の多くが、自らは健常者であるという立場から一歩も動こうとしないままに、自己の満足(それは全くの自己満足であったり、一部の人間が権力欲を味わうための道具にされただけなのかもしれない)のために想像力を置き去りにしたせいだ。

現代だと、オタクと呼ばれている人々が差別対象にされている。
世間では、オタク=ロリコン、ロリコン=性犯罪者、故にオタク=性犯罪者、というわけの分らない飛躍的な論理で、オタクにレッテル貼りをしようとしている。
ここでは、オタクにも色々種類があるとか信念があるとかそういう大事なことはないがしろにされていて、まるで問答無用に次なるターゲットとして祭り上げようとしているとしか思えないフシもある。
人権屋は「個性が大事だ」と言いながらも、一方では嗜好性の強い人間をカテゴライズして語ろうとする。勿論それは人権屋だけではなく、彼等に感化された我々も一緒で、我が子の個性は地球より大事に思うけれど、他人の子供は十把一絡げでに把握して、自分の子供だけは特別扱いで更には「よその子より一歩でも抜きん出るべきだ」と考えている。
解るかね。
「我が子と、それ以外」という思考が差別の基本だということなのだが。
だが然しそれは人としても親としてもごく自然な発想であり、狭窄的だとのそしりを受けようとも否定できない感情なのですよ。とは言え、それ自体別に大したことはないんです。自然なことなんだから。
そういう自然な感情の持ち主が世界には溢れていて、我が子にかかる煙草の煙を憎み、煙草の存在そのものを憎み、それを嗜好する人間を憎むという具合に考えが推し進められれば、そこがホラ、もうめくるめく差別主義の甘美なる密溢るる約束の土地ですよ。
そこにはキミタチが差別する人もいれば、キミタチを差別する人もいて、いわば全く平等な世界ですよ。
つまり我々は現在、理想的な平等社会に生きているわけで、その根幹を成しているのは日々止む事のない差別主義というわけです。
だからオレは声を大にして喝采を叫びます。
煙草万歳。
差別万歳。
世界万歳。
生きていて良かった。

posted by 肉王 at 04:09| Comment(7) | 戯れ言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月21日

シカナナとヨンカシチ

やあどうも。

鵜呑みにしてませんか。
何かを。
「日本は日本人だけのものじゃない」とか「ナボナはお菓子のホームラン王です」とか「アナログ放送は2011年7月までだ」とか。
巷間流布された確証の無い噂話や、先人たちのうっかりした言い間違えとか、広辞苑に書かれた例文など、そのまま鵜呑みにして引用してませんか。
4を「よん」と読むか「し」と読むか。7を「なな」と読むか「しち」と読むか。
これは単に音読みか訓読みかという問題ではなく(いや、もしかするとそれだけの問題かもしれないけれど)、実は正しくないことをそのまま何の疑いも無く生卵は体に良いからと思い込んで10個も20個も丸呑みするような愚行であるかもしれないのだよ。

キミらくらいの年齢になれば、もう九九などは諳(そら)んじることが出来るはずだが、だからといって、40歳以上の人間であれば必ず諳んじる事が出来るわけではないのだということを考えたことはあるか。
不思議なもので、年齢とともに9の段・8の段といった順番で怪しくなってしまうのだ。このままでは45歳になるまでには2の段すら言えなくなってしまうかもしれないのだ。
と、まあそれはいい。
例えば、4の段を海に向かって叫ぶ時に「よんにがはち、よんさんがじゅうに、よんよんがじゅうご」とは言わないだろう。古来より、「しにがはちしさんじゅうにししじゅうはち」と言ってきているはずだ。
キミらの大の苦手の7の段だって「ななにじゅうにななさんにじゅうさん」とは言わない。この場合は「しち」と発音するベシと教わったはずだ。
ところが昨今では「し」や「しち」は聞き間違いを防ぐ意味で「よん」「なな」に置き換えられるケースが増えている。7時を「ななじ」と言っても、まあよし、なのである(ヒゲのベイチ氏は許してくれないが)。
特に軍隊では「し」や「しち」は明確に「よん」「なな」と置き換えられているはずなのだ。
「敵機接近、七時の方向」を「しちじのほうこう」と言ってしまうと、1時だか8時だか分らなくなるので、そこは五十六さんもその辺キビシク「ななじと言え」と教育していたはずなのだね。

それでまあ、何が言いたいのかっていいますとね。
「よん」と「し」、「なな」と「しち」って、どうやって使い分ければいいのかってことですよ。
七転八倒は「ななてんばっとう」とは言わないのに、七転び八起きはなぜ「ななころびやおい」なのか。そもそも、七転び八起きの状態って、最初は立っている状態なのか転んでいる状態なのか。八回起きるには、八回転ぶ必要があり、七回しか転んでいなければ七回しか起きることはできないのだ。
図に描いて考えれば分りやすいのだけれど、

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|を起きた状態、_を転んだ状態として考えると、確かに数では七転び八起きで合ってはいる。しかし、最初の立っている状態を(左端の|)を果たして八起きの一つとして勘定してよいものなのか。ことわざの望む意味として、そこを勘定に入れてもいいのか!
「八起き七転び」ならばいいだろうが、それではことわざのニュアンスが、「人生山あり谷ありだよね」というヤレヤレな感じにランクダウンしてしまわないか。
「何度転んでも立ち上がれモマイラ!」という本来の主旨から、大きく格下げになってしまうじゃないか。
ことわざ的には、

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こう言いたいわけなんだろう。
ただ、これだと最初が転んでいる状態だから、それまでずっと寝ていたのか?という不本意な指摘を受けざるを得ないから、あえて立っている状態から始まり、「お、これだと七転び八起きでゴロもいいじゃん」と形式的な体裁を採用したわけだろう。官僚的な発想ではあるけれど、感覚的には間違いじゃない。
そう考えれば、七転八倒の転びっぱなしの苦しみの様も理解できる。
ま、以上は余談だよね(今、気がついた)。
問題なのは、「しちてん」と「ななころび」の違いだよ。
「ななてん」とか「しちころび」とは何故言わないのか。
例えば少し訛りのある人が、七時半を「ななんじはん」と言っても、「キミは岩手の出身かね?」と言われるだけで済むのに、四時前を「しんじまえ」と言ってしまうと「てめえ後で第7倉庫の裏に来いよ」などと凄まれてしまうのだ。
この辺の理不尽をクリアにするために、是非とも「よん」「し」「なな」「しち」の置き所をはっきりとさせて欲しいのだ。
そうでないと、「だいしちそうこ」だか「だいはちそうこ」だかよく聞き取れなくて、「だいいちそうこ」だったかもしれないとか、面倒くさいし痛そうだから行くのやめようとか思ってしまうのだ。
こういうことというのは、結構ストレスの溜まることだと思う。

で、そういうストレスを抱えたまま、ベイチ氏の「18日に行くからよ」という言葉を信じて待っていたのだね。
でも来なかったのだね。
最初は「17日(じゅうしちにち)」だと聞いていたから、一日中緊張して待っていたけれど結局来なかったから、「18日と聞き違えたか」と思って翌日もよりいっそう緊張して待っていたのに、結局18日も来なかった。
もし彼が「じゅうななにち」と言ってくれれば、二日間も緊張感に見舞われたまま過ごさずに済んだというわけだよ。
日本が日本人だけのモノじゃなかったり、ナボナがホームラン王だったりしても、それは信じた方の問題であるし、事実、現代の日本はどうやら日本人のものではなくなりつつあるし、ナボナは美味い。それは事実だ。
そしてまた、ベイチ氏のオレに対する厳しい仕打ちも、昔から変わらぬ真実の姿勢なのだった。
posted by 肉王 at 03:00| Comment(5) | 戯れ言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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