2016年08月16日

自殺教室で生まれた死生観(3)

麻雀をよくやります。
皆さんはやりますかね。
世間的にはギャンブルのイメージが強くて、あまり好意的に受け止められてはいないのでしょうか。俺が覚えたのはもう30年以上前で、そのころは確かにギャンブルの道具としての扱いが当たり前でした。
現代では、女流雀士なども多く出てきて、囲碁将棋ほどではないにせよ、ある程度の理解は得られているような気がします。
今からもう25年ほど前ですが、俺は仕事もやらずにパチンコで生計を得ておりましたが、そのころホームグランドにしていたパチンコ屋の2階には、馬鹿にだだっ広い雀荘があり、よくそこで本業で負けたパチプロ相手にレートの少し高い麻雀をやっていました。
自分で言うのもなんだけれど、俺はパチンコの腕が良くてほぼ毎日勝ってしまうわけですよ。ところが、その店のパチプロ連中は腕が悪くて、勝ってもちょぼちょぼ、負けると際限なく負けるような恥ずかしいプロが多かった。
それで、そういう連中が、多少金を持っている俺をしょっちゅう麻雀に誘うわけです。本業の損失補てんを狙っての事ですよ。しかし、パチンコですらコロコロと負ける連中だから、麻雀の方も大して強いわけでもない。普通にやっているだけでも、まあそんなに負けることもないんですけれど、ただし気迫だけはものすごいんですね。しかも、向こうは3人がこちらの懐を狙っているわけで、はっきりと組んでいるわけではないけれど、何となく攻撃が俺一人に集中してしまう。そういうのと対決し続けると、麻雀なんか面白くなくなっていくわけです。何というか、心が荒んでくるにしたがって、麻雀も荒んでくるんです。
なんだっていいから、勝てばいい。それしか考えなくなってしまう。
しかし勝ったところで、相手はそんなに金を持っているわけでもないから、いくらにもならないし、ただもう結果としては自分の懐を守り切っただけで、疲労だけが残るようなものです。
今ではもうパチンコはやらないし、雀荘に行くのも2か月に1回程度で、しかもレートは30円です。
それでも麻雀をやめない理由は何か。
単純に面白いってことです。
よく、麻雀は人生と一緒だとか、性格が出るとか言われます。
人生と一緒かどうかはさて置いて、性格はよく出るようです。イライラしやすいとか、目先の利に走りがちだとか、注意力が無いとか、危機意識が薄いとか、空気を読めないとか、先見性の有無や、構想力、想像力、推理力、記憶力なども試されるし、数学的な知見なども当然のことながら、芸術的な閃きも求められます。
最近ではネット麻雀も盛んで、俺もロンロンというサイトに登録して、時々遊んでいますが、ネット麻雀のいいところは、対戦後に自分の牌譜がチェックできるところです。これがあるので、対局後に自分の打ち方を確認して、悩んだ部分や分からなかった相手の打ち方などの答え合わせをして、「やー、ナルホド」なんてことが出来ます。

さて、ここまで自殺とは関係ない話をしてきましたが、退屈でしたか。
まだ少し、麻雀の話が続きます。
麻雀は、囲碁や将棋と違って、見えない部分が多いゲームです。自摸山は見えない、相手の手も見えない。見えるのは自分と相手が捨てた牌ばかりで、そこから様々なものを想像しなければなりません。さらには相手の癖や、気配、息遣いや牌の捨て方など、ゲーム以外の情報も重要になる場合もあります。
そうやって、細かいことに一つ一つ気を付けながら自分の手を作り、勝者になるべく地道な努力をするのですが、それらが必ず報われるわけではありません。麻雀というのは、嫌になるほど理不尽なゲームで、人の努力を一瞬の交通事故で吹っ飛ばしてしまうような展開が良くあります。
逆に言えば、でたらめに打っていても、幸運一発で劣勢をひっくり返すことが出来るとも言えます。
そういうゲームなので、俺は麻雀に人生観の全てを持ち込むことはしないのです。
ただ、時々そういう理不尽な一撃に粉砕された時には、「うむ。そういう事もある!」と力強く思うことにしています。
たかがゲームでもそうなのだから、人生においておや、というわけですよ。
こういう時だけ都合よく人生観を持ち込むわけです。
実は俺自身、この理不尽なゲームのおかげで、人生の理不尽に対しての耐性ができたような気がするのです。
幸運は選ばれた人の下へしかやってこないけれど、理不尽だけは平等に降り注ぐものだとするならば、それもまた人は皆平等であることの容赦なき証明だ、などと思ってしまうのです。
勝つとか負けるとか、そういうこととは無縁に麻雀を楽しむためだけに麻雀をするのが俺のポリシーで、これ以上の事は求めません。
勝てば得をするし、負ければ損をする。しかし、そんなことは大した問題ではありません。勝っても得をするのは僅かな満足心とわずかな金額ばかりだし、負けても失うものはわずかな金額だけ。何もしなくたって金は出ていくものだし、買って得た金額だって同じくすぐに出て行ってしまう。勝っても負けても一時の事だし、明日はまた平等に理不尽がやってくる。
損か得かという些末な問題に振り回されると、失うことの恐怖心ばかり募って、恐怖心を育てる自分の心と常に戦っていないと、今度は不安感に襲われるようなる。
失うことは損ではない。失う事は恐い事でもない。
何かを楽しもうとするとき人の心は開かれるが、その瞬間を逃してしまうことが損なのであり、来るか来ないか分からないその次の機会を待つ間に、楽しもうとする心を忘れてしまうことが失うということなのであると俺は思う。
損か得か、そんなことを考えている間にも時間は過ぎていく。我々はこれまで生きてきた時間の中でも、沢山の損や得をしているはずだが、それが今の自分と密接に関係しているかどうかを検証したことなどないはずだ。なのに、目先の利を負って得な方へ得な方へと進んだところで、将来において結果がやはり得だったかどうかなど分かるはずもないし、分かろうともしないはずだ。
だったら、これからすることは自分がやりたい方向へ進むのが一番良い事なのではないかと思う。これならば、結果的にどうなったのかが非常に分かりやすいし、損か得かではない尺度で図るわけだから、後悔の残るはずがないというものだ。
自分の生きる価値だとか意味だとかは、損得勘定が身に沁みつきすぎたせいで生まれる誤解だと俺は思っている。とりあえず自分のやりたいと思う方向へ進むことで、痛い目も理不尽さも自分のものとして楽しんで受け入れることが出来る。
甘いとか自分勝手だとか言う人も多いだろうけれど、自分の人生を辛くしたり他人行儀にしたりする必要があるのかどうかも考えてみてはどうだろうか。
その上で、やりたいことをやり切ってしまえば、後は野となれ山となれ、死ぬも生きるも自分次第になるのではなかろうか。そして、そういう事で選んだ死ならば、きっと遺書など不要になると俺は思う。

次回は、罪の意識の持ち方のようなものを書いてみたいです。
posted by 肉王 at 03:36| Comment(4) | 自殺教室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月12日

自殺教室で生まれた死生観(2)

(1)を書いてから4か月も経ってしまった。
遅れてしまった言い訳をした方がいいのだろうか。
実は(1)の記事を書いた日に熊本の大地震があって、そんなさ中に人の生き死にの事なんか書いてもいいのかな、などと考えてしまって、じゃあまぁほとぼりが冷めるまで少し待とうか、シメシメ・・・というわけでございました。

そもそも、死生観などという大袈裟なテーマを持ち出したのが悪かったのである。
これは、アルミ缶を拾いに行くくせに、帰りにはベンツに乗ってこようという身の程知らずな行為に似ている。勿論可能性はゼロではないけれど、わらしべ長者じゃあるまいし、そんなうまい話があるわけないだろう。もしあったとしたらそれは、夢か、泥棒をしてきたか、もともとベンツで出掛けたかの場合だろう。
これから語る話が、夢でおわるか泥棒じみて話にならないか、あるいはベンツに大化けするか分からないが、ぼちぼちと進めてまいろうか。

人は誰でも、死を考えているらしい。
日頃勝手気ままに生きているように見える人も、しょぼくれてうつむいている人も、おおよそ例外なく自分の死や他人の死について考えているようである。
世界が始まって、人類が思考を持つようになって何年経つのか、そしてこれまでどれだけの人間がいたのか全く分からないが、それらの人々が皆、それぞれに死について考えて来たのを時間や質量になぞらえると、どういう数値になるのか。それをアルミ缶に換算するとどのくらいになるのか。多分ベンツ一台は楽に買えることであろう。
ところが、死については考えても考えてもなかなか答えが出せず、ただ未知なるものへの畏怖から「忌み嫌うべきもの」だったり「明日への課題」だったりと、投げやりに扱ってきたようである。優れた哲学者や宗教家などはある程度の答えを持っているようだけれど、それらをいくら聞いても読んでも釈然としないものだったりはしないだろうか。
我々、あるいは俺の理解力に問題があるのだろうけれど、それ以外にも、彼ら(特に宗教家の人々)の語る死生観のベースが、世界全体の人をひとくくりにしているようなので、対象が大きすぎてイメージがわかないという事があるような気がする。
もっとコンビニエンスな感覚というか、個人に寄り添った規模で話してはくれないものかと思うことがほとんどだ。
俺は、死を考える前に、生を考えてみたいと常々思っている。
それは、生きることを前提にしたいというわけではなくて、死ぬことを前提にして、生き方を決めたいということだ。
自分はどこでどういう風にして死にたいのかを決めれば、そこから逆算して生き方も決まってくるのではないかということだ。
病院のベッドで死にたいのか、自宅で人知れず死にたいのか、戦場でハチの巣になって死にたいのか、山中に不法投棄された冷蔵庫の中で死にたいのか。人それぞれに希望はあるはずである。おおむね希望通りになんか行かないだろうけれど、それでも希望の死に方があれば、日頃の行動だって多少なりとも変わってくるはずで、それが自分の生き方になっていくのではないかと思っている。
そんな後ろ向きな生き方があるか、と怒られるかもしれないけれど、そもそもここに辿り着いてしまった人々は、どうしても前向きに生きられないから、「生き方が分からない」とか「生きていても死んでしまっても同じにしか思えない」とか「生きる理由が無いとしか思えない」などと言って自殺をしてしまおうとしているわけなので、それらの人に前向きに生きる方法を享受できるなら、それを教えてやってくれと言いたい。

言葉のイメージというのは恐ろしいもので、「死ぬ」「落ちる」「損をする」「後ろ向き」「病気をする」「失くす」「騙される」「泣く」「暗い」「孤独」などというマイナスイメージの言葉が「悪いもの」として認識されてしまう。
もっと言えば、悪いものが何であるのかを考える前に、悪いものはイコール悪である、悪はイコール駄目なものである、駄目なものはイコール価値のないものである、価値のなものはイコール存在してはいけないものである、と直結されている。
俺はどんなマイナスイメージの言葉でもそれは不必要なものとは思わないし、価値のあるなしで物事を図ろうなどと思いあがったりなどしたくない。
人は誰でも死ぬし、落ちるし、損をするし、病気もするし、泣いたり騙されたり、暗い気持ちの時もあるし、バースデーパーティーの最中でさえ孤独を感じるものだ。
それの一体どこが悪いというのか。それらに価値が無いと誰が言えるのか。
それらに価値が無いと言って自分から遠ざけたとして、そんな人には何よりも大きな価値があるのだろうか。そして生涯最後のまさに今まさに死ぬぞという時に、その人は無価値になってしまうというのだろうか。

既成の価値観というやつは恐ろしくて、特に理由も必要としないまま人々の心の奥底に潜り込んで、生き方のあれやこれやに指図をしてくる。法に基づいた正義であったり、社会に都合のいい道徳には、疑問や異論をさしはさむ余地がなく、そこからはみ出そうとしたり落ちこぼれてしまったり理解できない人々に対して、容赦ない制裁が待っているように思わせてくる。
実際には思ったほどの制裁もないのだけれど、そこに植え付けられた恐怖感は絶大である。
勿論、集団や社会の中で生きようとすれば、法律や道徳は必要なものだが、その集団から外れてしまえば、それで人生が終わるというようなものではない。終わるとしたら、その集団で育まれた価値観を捨てきれないせいである。
もしも僅かの勇気があれば、その既存の価値観を捨てて、新たに自分の価値観を築けばいいのであって、その結果自分が「失った」「孤独になった」と感じたとしても、今度はそれを抱えても重荷に感じないような価値観を持てばいいのである。
それにはどのくらいの勇気が必要なのかというと、いつも行っていたラーメン屋をやめて、隣の牛丼屋へ通い始める程度の事だと思う。
そんな簡単な事のはずがないと思う人は、多分邪険にされつつもまだいつも通りのラーメン屋に通っているか、店主の目が届かない隣町のラーメン屋を探さなければならないと思い込んでいる人だろう。それこそが既存の価値観のなせる業であり、それに冒されてしまった心がいかに頑なであるかという証明だと思う。
問題なのは他者の目線ではなく、自分の心の在り様(ありよう)なのだから、自分がどこで何を食おうとも誰にも指図されるべくもないのである。
ここまで言っても「そうは言うけれど、社会というやつは・・・」と反論されることもよく分かっている。
けれど、こんな簡単なことにさえ異論を唱えて、現状の集団にしがみつこうとする人に対する言葉を俺は持っていない。
1+1は2だが、3−1だって2になるのだ。損得勘定ばかりしていては、足し算ばかりに気がいって、引き算を毛嫌いしてしまいがちだ。そういう人には引き算や割り算を薦めることは出来ない。そして俺は、それ以外の演算方法が苦手だ。
いつも引き算ばかりではいつかマイナスになるじゃないかとも責められるだろうが、それは先に言った通りで、マイナスが価値のないものだとは思っていないので、どうだっていいことだ。
そのどうだっていいことで、人の生き死にを決めてしまったり、自分の人生を諦めて捨ててしまったりするのは、もうやめてくれないかと強く思っている。

今日のところはこの辺で終わりにしたいです。
店の中が蒸し暑くて、思考が空転してきました。
どうでしょうか。
ベンツは買えたでしょうか。
次回は損得勘定についてもう少し語ってみたいと思います。
posted by 肉王 at 02:35| Comment(0) | 自殺教室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月15日

自殺教室で生まれた死生観(1)

やあどうも。
皆さんはお元気でしょうか。
私は激しい後悔に襲われています。

随分以前に書いた「正しい遺書の書き方」という記事に対し、いまだにコメントが付きます。
みんなが悲しい気持ちでネットで「遺書」とか「自殺」といったキーワードで検索をかけて、その結果、昔の記事にたどり着いて、どんなにか辛い思いで私が戯れて書いた文章を読んでしまっているのかを考えると、胸が締め付けられそうになります。
正直を言いますと、何度も記事を削除しようと思いました。
しかし、私の返信を含めて280ほどのコメントまで消してしまうのは、今までコメントを残してくれた人たちへの裏切り行為に当たると思うと、やはり消すことは出来ません。
彼らが絞り出した言葉の数々は、その時その時の彼らの必死の絶叫であり、それは彼らの存在証明であり、そして私に対して言葉を残したことこそが彼らの大きな存在価値なのではないでしょうか。
そんな大きな言葉を消し去る権利は、もはや誰にもありはしなくなってしまったとしか言いようがありません。
誰にも注目されないネット社会の掃きだめのようなこのブログですが、彼らはそこに、大きなビルを建ててしまったのです。
絶叫をした瞬間の彼らが、いつまでもそこに住み続けている以上、もはや撤去は不可能で、日照権も建築基準法もぶっとばす勢いです。なんと素晴らしい事でしょうか。
私はさしずめそこの管理人で、役所や周辺住民どもを威嚇しながら、住人たちの要求のみを聞き入れて、増築に次ぐ増築を続けているというわけです。
とは言え、日々コメントに対して返信を続けているだけで、私自身の死生観はどうなっているのか。
彼らに対して偉そうな返信をしている私自身は、人の生き死にに対して、どんな考えがあるのか。
ずっと前からそういう事を考えていたわけですが、ずぼらな性格のせいで、特に明言をせず放置したままになっていました。
私も来年には50歳になるので、これから先、何かの拍子に頓死してもおかしくありません。
そう考えたら、その時のために、もう少しこのブログに言葉を残しておいた方がいいような気持ちになりました。
これから、また少しづつ書いていきます。
好きなもの、嫌いなもの、色々ありますが、まずは死生観から書いていきます。
posted by 肉王 at 02:17| Comment(2) | 自殺教室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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