2006年11月05日

「絶望者たち」別荘にて(その2)

やあみんなお待たせ。追われて辿り着いたのか、逃げて流れ着いたのか、私は今、別荘地にいるんだ。
しかも、猟銃なんか突きつけられてる最中で、もうマイッチャウナア〜って感じさ。みんなもさ、色んな悩みがあると思うんだ。勉強のこととかさ、うんそうだね、恋の悩みとかさ、人間関係とかも大事だよね。でも、そんな沢山の悩みに負けないで強く生きて欲しいな、僕ぁホントにそう思うよ。だって、キミタチの悩みなんか、僕のこの現状に比べたらなんでもないことじゃん。
撃たないでくれよ。撃たないでくれよぉ〜。死にたくないよぉ〜。

人間、死に直面すると結構つまらないことを考えてしまうものだ。どういうわけか私の思考回路は、70年代の深夜ラジオのDJのように軽薄なものになっていた。
じゃあ、次の曲はペンネーム(夜霧のすっとこどっこい)からのリクエストで三上寛「一人の女のフィナーレ」を聴いて貰おうかな。
いけない。もう、脳が死を覚悟している。

「待て。撃つな。私はナマナカに会いに来ただけだ」
私は両手を高く上げて男に、いや、鋭く睨みつけている銃口に哀願した。しかし、銃口は揺るがなかった。男は相変わらず強い意思で銃を構えたまま、冷たく言い放った。
「先生はおまえさんなんかには会わねえとさ」
銃口に力がこもる。私は覚悟を決めかねていたが、事ここに至っては逃げも隠れもできやしない。銃口が火を吹く瞬間を見たくないし、命中した瞬間を感じたくも無いので、固く目を瞑った。まるで、そうすれば顔面が弾丸を弾き返せるかもしれないという願いを込めるかのように。
「待った!伝助さん!待った!」
不意にどこかのドアが開く音がして、同時に聞きなれた声が響いた。銃口からふっと力が抜けるのが判った。私の体からも力がやや抜けた。
「伝助さん、いいんだ。その男は撃たなくていい」
「先生、しかし、この男は怪しいべさ」
伝助と呼ばれたこの男は、まだ銃に力を残している。しかし私はほぼ安心していた。声の主は、紛れも無くナマナカだ。
「そいつは山本といって、ボクの患者だった男だ」
患者だった。そう、過去形が正しい。私はもう、彼の患者ではない。しかし、説明としてはいささか不足であることも確かだ。
「山本は極度のアルツハイマーで、しかも末期の・・・」
ようやく伝助が銃を下ろした。私は深い安堵の溜息をついた。
「しかし驚いたな。ボクの病院の看護士から連絡は受けていたが、まさか本当に辿り着くとは思わなかった」
なんだと、どういうことだ。小学生の遣いじゃあるまいし、本当に辿り着けるとは思わなかっただと。ナマナカは一体何を言ってるんだ。
私が立ち上がると、突然けたたましい破裂音が響いた。三人とも驚き、首をすくめた。しかしそれは、暖炉の薪が弾けた音だった。

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ボクはソファに深く身を沈めていた。山本も正面に腰をかけて、ウイスキーを飲んでいる。伝助には一つだけ言付けて、別室に控えさせた。
山本には全く驚きだ。
とある組のヒットマンだった山本が、ボクの診療所を訪れたのは去年の5月だった。酷い頭痛と眩暈、そして記憶障害を訴えていた。検査の結果、重度のアルツハイマーであることが判明した。
ボクは検査結果を山本には告げずに、山本が所属している組に伝えた。手術など無意味なこの病では、ボクの診療所にいつまでも置いてはいられない。手っ取り早く引き取ってもらうか、入院をさせるならそれ相応のカネを要求しようと思ったからだ。
しかし、その結果は寂しいものだった。組からは無しのつぶてて、その上、山本を消そうとする動きすら見られた。故障した道具は処分してしまえということだろう。こんな世界じゃあそれも当たり前で、ボク自身驚きもしなかった。しかし、ボクまで巻き添えになるのは真っ平だった。組の者たちも、山本が診療所にいる間は決して手出しをしなかったが、だからと言ってボクが山本を匿う理由もない。
それでも1ヶ月間に渡って山本を入院させていたのは、ボクの人間としての最低限の良心だったつもりだ。その間にも山本の病状は悪化し続け、毎日のように不毛な問答を繰り返したものだ。
そうしてとうとう、ボクは山本を捨てた。
昨年の夏に、こっそりとこの別荘へ連れてきた。その時にはもう、山本は字も読めなくなっていた。多分現在では自分の名前も失っているし、目の前の物体がなんなのかすら分かっていない筈だ。
なのに、山本のこの泰然とした振る舞いはどうだ。
「山本さん、あんた、銃は持っていますか」
「銃?これのことか」
山本は内懐から拳銃を引っ張り出して、無造作にテーブルの上へ置いた。一体、山本はこれまでこの銃で何人始末してきたのか。その経験が未だに山本の中で息づいているのか。拳銃は鈍色の中にその答を隠し持っているのか。
ボクが山本を捨てたとき、こいつは捨てられたことにも気が付かず、屋外のロッキングチェアーでうたた寝をしていた。まるでそれまで背負っていた罪が全て清算されたかのように平穏な顔で。やがて、それまで尽くしてきた組の仲間に消されることなど、つゆほども想像してなかっただろう。
その顔を見ていて、記憶を失うとはこういうことなのかと、うそ寒くなったのを覚えている。
しかし、記憶は失っても、経験は残っているのだ。現に、ここにこうして山本が生き残っているのがその証明だ。これまでの数ヶ月間で、山本はどれほど凄惨な経験を積んだのか。その記憶は、果たしてどこへ消えてしまったのか。その消え失せた記憶の中にこびりついていたボクの名と別荘を頼ってきた山本にとって、ボクという人間は一体どういう種類の人間なのか。
「山本さん、何故ここへ来たんです」
山本はウイスキーを飲み干し、グラスの底をかざしてボクを見た。分厚いガラスの向こうに、小さくひっくり返った山本が映る。
「何故ここへ来たかって?じゃあナマナカは何故ここに居るんだ」
「ここはボクの別荘だ。何をしに来ようと僕の勝手さ」
「いや、そうじゃない。そういう意味じゃないんだよ」
山本はまたグラスに酒を注いだ。暖炉の炎が映り込み、幻想的な琥珀色に光った。
「ナマナカがさっき言ったように、私はアルツハイマーだろうと思う。正直なところ、もう字も読めないし自分の名前も判らない。それどころか、今飲んでいるこれが何なのかもよく分かっていない。自分の事が判らなくなると、他人の事も判らなくなるんだ」
山本は「ふうー」と長い溜息をついた。
「今まで、どこでどうしてきたかも、もう判らない。そして、これからどうすればいいのかも判らない」
「それで?」
「自分の人生が不運だったとしても、それを恨むべきなのかどうかも判らない。しかし、ケリはつけたいと思う。自分は逃亡者ではなく臆病者でもないことを証明したいと思う」
「誰に証明すると言うんだ。そんな必要があるのか」
「記憶を失い、親兄弟の名も仲間の顔も何もかも失った私に、誰、という存在はない。ただ目の前の標的に向かって証明するだけだ」
病状が絶望的に悪化している。いや、ここでこうして会話を交わしていること自体が奇跡的なのだ。
山本のただならぬ気配に気圧されるように、立ち上がった。何か言おうと口を開きかけた時、山本の右手が微かに動き、グラスがボクの目の前を掠め飛んだ。視界の隅に、山本が半立ちになりテーブルの上の銃を掴んだのが見えた。
「伝助!」
ボクが叫ぶより早く、野獣の怒号にも似た銃声が響いた。山本が胸に不意打ちを食ったように弾かれ、ソファを背面飛びで越していく。伝助の撃った弾が、正確に山本を撃ち抜いたのだ。
「先生!」
いつの間にか隣室から飛び出してきた伝助が、猟銃を構えたままボクの隣に駆け込んできた。
「危ねがったです、先生」
「ヤツは死んだか」
伝助は銃口に緊張感をみなぎらせたままソファの裏に回りこんでいった。
「死んでるみでえですが・・・」
「そうか・・・」
ボクは、決して安心感とは言えない溜息をついた。それは淡い寂寥感だったのかもしれない。伝助が銃口を下ろすのを見て、ボクはゆっくりと山本の死体に近づいた。山本の口から、胸から、大量の鮮血が噴出していて、体はまだ細かく痙攣していた。
その時、口から一際大量の血液が噴出し、酷く荒く長い息が漏れた。まるで、胸に空いた風穴を湿った強風が吹き抜けるように。
伝助が慌てて銃を構える。
「ナマナカァ・・・いるかぁ・・・」
山本の断末魔だ。ボクは返事をせずに、黙って山本を見つめた。
「ナマナカァ・・・オチが無いってのは、つまりこういうことなんだなぁ・・・」
山本は何かにすがるように、もう一度ボクの名前を呼んだが、ボクは言葉の意味が判らずに、ただじっと山本を見つめていた。
オチが無いってどういうことだ。人の生き様にオチなんかあるもんか。
それでもボクは、何か気の利いた台詞で山本をあの世へ送ってやろうと思ったが、とっさには何も思い浮かばなかった。
そうこうしている内に、伝助が2発連射して山本にトドメを刺した。

−おわり−
つまらなくて申し訳なかったね。
次回は下ネタだからお楽しみに。
posted by 肉王 at 22:55| Comment(0) | 絶望者たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月01日

「絶望者たち」別荘にて(その1)

「絶望者たち」シリーズは、よほど面白くないらしいが、もう少しで終わるから我慢してくれたまえ。


追われて辿り着いたのか、逃げて流れ着いたのか、私は今、別荘地にいる。
世間的に全く無名な温泉地に隣接したこの別荘地には、40以上もの分譲別荘がある。一体どこの間抜け企業がこんなところに別荘地など作ったのかは知る由もないが、闇医者のナマナカがここへ来ていることだけは知っている。

ナマナカは、ある都市でマンションのワンフロア6室を全て借り切って、闇社会の人間相手に非合法の医療行為を施して荒稼ぎをしている。非合法だけあって、料金はべらぼうに高く、その上およそ医者としては失格なほど患者に辛く当たる。
闇医院にしては珍しく入院用のベッドが30床あり、常に万床だ。だから、絶対に助からない患者は入院させないし、療養中でも病状が悪化して死期が近いと判断すれば情け容赦なく放り出してしまう。
そんな医者でも、一般の医者には中々かかれない闇社会の者達にとっては有難い存在だ。何よりも、訳有りだろうと犯罪者だろうと分け隔てなく治療してくれるし、警察や敵対組織から完全に身を守ってくれるだけの設備が整っているのだ。そしてまた、ナマナカの腕は確かで、大概の大怪我や大病にも対処できてしまうのだ。
そんな腕の良いヤツにも、何かしら欠点がある。むしろ、欠点があるから闇医者なんかやっているともいえる。
ナマナカは、ロリコンなのだ。それが原因で、勤めていた大学病院をクビになった。何をしでかしたのかは知らないが、おおよその想像はつく。
ナマナカの本名は「山中」というが、闇社会の中でどこでどうなったか、ナマナカという通り名になってしまい、本人もそれについて一向に異を唱えない。
ナマナカが医院を開業してから、もう10年も経っているだろうか。その間に、治してしまった人間も殺してしまった人間も3ケタを越えているだろう。
かく言う私も、ヤツの患者だったことがある。

この別荘地へ来るのは、今日で二度目だ。
前回来たのは、確か去年の夏だった。術後の回復が良かった私を、この避暑地へ呼んだのは、ヤツの気まぐれだったのだと思う。
あの時は、生まれて初めての避暑地で観光気分だった。気候も良く、環境も抜群に良かった。無名の土地ゆえ人気の無い避暑地には喧騒も無く、日頃の血の臭いもしなかった。あるのは、風の音と虫の声、鳥の鳴き声と尽きることの無い緑だけ。もしこのままここに居られれば、私は生まれ変わることが出来るかもしれないと思ったし、そもそもこんな所で生まれれば闇社会に足を踏み入れるハメにすらならなかっただろうと思ったものだ。
しかし、冬のこの季節、漆黒の闇に舞う雪の中にボンヤリと浮かぶ無人の別荘群を見ると、ここにはもう一つの裏社会が存在するのではないかと錯覚させるだけのえもいわれぬ迫力がある。
この時期に、こんなところへシケこんでいるナマナカはやはり変質者だ。
私は記憶を頼りにナマナカの別荘を捜し歩いた。去年の夏に幾日かを過ごした程度だったし、あの時と今とでは土地の醸し出す雰囲気がまるで違うため、正確な位置には少し自信が無かった。
しかし、目当ての別荘はすぐに見つかった。何の事は無い、明かりの灯っている建物はそこしかなかったのだ。
私は玄関の前に立ち、ドアを叩いた。
中に居るであろうナマナカが、風の悪戯と勘違いしないように、ヤツの名を呼び、私の名を叫んだ。
しかし、何度呼んでも応答は無かった。明かりは確かに灯っているし、建物の外観も記憶にある通りだ。
「ヤツめ、またぞろ女子高生でも連れ込んでやがるのか・・・ロリコン野郎め」
その時、内側から施錠の外れる音がした。
私は断りもいれず何も確かめずに勢いよくドアを開け、中へ転がり込んだ。私の後を追って舞い込んだ雪が、ナマナカがドアを閉めると共に霧消した。
コートの雪を払おうと右手を上げた時、私の背後でドアを閉めたナマナカが息を殺して立っているのに気が付いた。
気配を窺うまでも無く、背後に立っているのがナマナカではなく、しかも殺気をたぎらせているのが判った。その殺気の源は、鈍く光る猟銃だ。銃口は間違いなく私の耳の裏に当てられている。
「誰だ」
私は静かに両手を上げながら訊ねた。
「それは、こっちの台詞だべさ」
しわがれた老人の声には、私の背筋を確実に凍らせるだけの迫力と、必要な時には確実に発砲するという決意があった。
「ナマナカに用がある。ヤツの病院に行ったら、こっちへ来ていると聞いたもんでね」
「オレは誰だって聞いでんだべさ。余計なごと言うなや」
ゴツン、と私の後頭部が銃口で小突かれた。酷く痛かったが、泣き言を言うほどじゃない。
「その調子じゃ、ナマナカの知り合い、と言っても信用してもらえないんだろうな」
「先生は今、接客中だべさ。誰にも会わねえ」
「接客?セックスの間違いじゃないのか」
こんな時に格好をつけて減らず口を叩くのが私の悪い癖だ。案の定、銃身で激しく叩きのめされて、あっという間に私は床に転がった。撃たれなくて良かった、というのが正直な感想だった。
うつ伏せになった体をゆっくりと起こして、声の主と正対すると、そこには今までにも何度か見たようなタイプの小柄な老人が立っていた。
「余計なごと言うなって忠告したべさ」
ドスの効いた声に続いて、けたたましい銃声が響いた。気が付くと私の脇腹のすぐ傍の床に着弾していた。床の焦げる臭いと、硝煙の臭いが室内に充満した。
「クソ!外れだべさ」
なんてこった。このジジイ、警告じゃなくて本気で当てるつもりだったのか。
「じいさん、あんた誰なんだ」
私は後ずさりしながら、そろそろと起き上がった。しかし、銃口はまだこちらを向いている。
「オレはこの別荘地の管理人だべさ」

-つづく-
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2006年10月29日

「絶望者たち」公衆便所にて

追われて辿り着いたのか、逃げて流れ着いたのか、私は今、公衆便所にいる。
オフィス街の高層ビルに囲まれた50坪ほどの暗く小さな公園に設けられた古く汚い公衆便所には、裏切られた男たちと奪われた女たちの怨念が吹き溜まっていた。建物内の蛍光灯は弱く緩く明滅し、まるで不意の侵入者に何かを訴えているようだ。加えて何年も清掃されていないための悪臭が、私の不安な心と敏感な鼻腔を容赦なく殴打した。
外壁に塗りたくられている無軌道な若者たちの残した無数の禍々しい落書きは、内装にまで及んでいて、ここが定期的に彼らの暗黒の集会所になっていることを物語っている。
時刻的には、闇を好む若者たちが穴から出てきそうな時間ではあるが、幸か不幸か今夜は雪が降っている。便利な都会の環境に慣れきった軟弱な若者たちが、この雪の中をわざわざ這い出してくるとは思えない。
しかし、私を追っているものたちならば話は別だ。例え鉄の玉が降っていようとも、私を追って血の雨を降らせに来るだろう。
本来ならば、こんな都会の死角にいつまでも留まっているべきではない。こんな死角にこそ、ヤツラの目は光っているのだ。
先日、絶望岬でHITした老人のことが、一切ニュースになっていないのも気になっている。私が撃ち抜いた老管理人は、一般市民だったはずだ。であれば眉間を撃ち抜かれた変死体として、何らかの報道があってしかるべきだ。
あの老管理人は、一体なんだったのか。もし追っ手だったとすれば、あの時の私の選択は正しかったということになるが・・・。

だがしかし、現在は余計なことを考えていられる余裕が無い。私は今、激烈に腹が痛い。勿論、私のような立場のものにとってこんなことは何でもないことだ。いつどこでナニがあってもいいように、準備に怠りはない。
私は個室に入り、脱いだコートをドアのフックにかけた。和式便器なのが誠に遺憾ではあるが、こと公衆便所においてはやむを得まい。
私は素早く的確に位置について用便を開始したが、この和式便器での用便はかなり不安だ。体勢が無防備に過ぎるのだ。しゃがむ、という基本的な体勢の不利に加え、下半身がむき出しという行為が、屈辱的なまでに決定的に不測の事態たらしめている。
聞き及ぶところによると、野生動物でも排便時が一番生命を危機に晒している瞬間だという。まさしく、といわざるを得ない。こんなところをヤツラに襲われたら、私ならずともイチコロだ。
「あんた、逃げてきたね」
薄暗い闇から響く、突然の問いかけに私の膝がガクリと揺れた。
「だ、誰だ?」
「ワシはしがない公園管理人だ」
「その管理人が、私に何の用だ」
私はうろたえつつも、声の主の気配を探った。だが、この位置では探る範囲が限定される。何はあれ、上を見ざるを得ない。と、そこには隣の個室から覗きこんでいる初老の男の顔があった。
「用があるのは、おまえさんのほうじゃないのかね」
「馬鹿を言うな。貴様などに用はない。早く引っ込め」
「ふふん。その大きな態度も、いつまで持つかな。その個室には紙がないのだ」
「ははは。気様ら管理人はだから馬鹿だというのだ。私がそんなことすら予測できていないと思うか。みろ、このポケットティッシュの数を。どう少なく見積もっても2回分はある」
「ホゥ、逃亡者にしては用意がいいな」
「私は逃亡者ではない。こうして常に不測の事態を予測しているのがその証拠だ」
私はこれ見よがしにポケットティッシュを掲げた。気分はワールドカップの日の丸掲揚だ。ニッポン万歳。経済大国万歳。環境破壊万歳。
「逃亡者ほど、様々な不安に怯えて無駄な準備をしているものさ。そうして肝心なところが疎かになっているというわけさ」
「なんとでも言うがいいさ。とにかく人のクソを覗くのは止めろ。見られていると、ケツが寒々しくなってフン切りが悪くなる」
「まあ良かろう。ワシとて、臆病者に付き合うほど暇じゃないからな」
老管理人は可可と笑って頭を引っ込めた。
ヒタヒタと静かな足音が退場を物語っていたが、出入り口付近で音が途絶えた。私はホッとして残りをひり出しかけていたが、すぐに男の足音が不自然な旋律を繰り返していることに気が付いた。
「何をしているんだ。とっとと消えろ。アヌスがオドオドするじゃないか」
「いやな、やはり伝えておいて方がいいかと思うんだが」
「一体何なんだ貴様は」
「このトイレを得体の知れないヤツラが取り囲んでいるんだが、おまえさんに関係のあるヤツラかね」
ナナナ、ナニー!こんなところで追い詰められたのか。
「それとな、そのトイレは水が流れない」
全く何てことだ。泣きっ面に蜂とはこのことか。私は自分のけじめもつけられないままヤツラと対峙する羽目になるのか。私は腸内の取り残しにいささか不満を覚え、拭く手もそこそこにズボンを上げた。
内懐から銃を取り出し、弾倉を確認する。だが、あの絶望岬の一件以来、一度も使っていないのだから残りは4発であることは分かっている。問題なのは、こいつらに不発が無いかどうかだけだ。しかし、そんなことは実際に撃ってみなけりゃ分からない。
「老人、外にいるのは何人だ」
私はコートを着込みながらドアの外の老管理人に尋ねた。
「・・・4人いるようだ」
私は、「沢山」か「2・3人」という大雑把な答えしか期待していなかったが、管理人は夜目を利かせて正確に数えたらしい。情報は正確なほうがありがたいに決まっている。その点では管理人に感謝すべきだが、それにしても4人とは・・・。残弾と同じ数ではいかにも分が悪い。
「正面の植え込みに2人、このトイレの後ろに1人・・・後は・・・」
私がドアを開けると、老管理人はトイレの出入り口から顔を半分覗かせて、外の様子を窺っていた。
「残りの一人はどこだ、老人」
私は拳銃を握り締めると、素早く老管理人の脇に走りこんだ。
「ここだよ」
管理人がにやりと笑って振り向いた。その目は獲物を捕らえた死神を想像させた。私がハッと身構える間も無く、凍てついた空気の中に濃色の分厚い粒子が破裂したような閃光が走った。
閃光をまともに食らった私の目は視界を失い、死神の目だけが残像として浮かび上がった。
私は死を覚悟した。
この機にヤツラが雪崩れ込み、そして数十秒後にヤツラが去った後の私は、ただの骸になっているのだ。
人生の最後が汚い公衆便所だなんて、いかにも絶望的でいいじゃないか。
そう思いながらも最後の抵抗くらいはするさ。私は文字通り盲目撃ちで引き金を一度絞った。コンクリート製の公衆便所内に銃声が大きく木霊した。
手応えがあった。
しかしそれは、霧の中に浮かび上がる交通標識のように微かだった。
ややあって、むぅ、という唸り声とともに肉塊の崩れ落ちる音を聞いた。
「やっぱりおまえさんは臆病な逃亡者だ」
私の目が元の機能を取り戻すと、老管理人は自分の血液で真っ赤に染まった胸を揉むように握っている。その脇に、大型の懐中電灯が転がっていた。閃光の正体はこれだったのか。
老管理人の喉から、吹雪のような息が漏れている。それはまるで荒い息の中から、死神が断末魔の叫びを発しているようだった。
私はすぐにヤツラが雪崩れ込んでくると予想していたが、何故かその気配もない。この間を利用して死神の足を掴んで奥へ引きずり込んだ。足元を整理していないと、何が災いするか知れたもんじゃない。ましてやまだ息のある死神を側になんか置いてはおけない。
すぐに出入り口に陣取り、外の気配を窺うが、人の気配など微塵もない。ただ深々と雪が降り積もっているだけだ。
どういう訳だ。
私は死神の脇にしゃがみこみ、血に濡れた頭髪を鷲掴みにして、顔を上げさせた。
「どういうことだ。外には誰もいないだろう」
私の問いに答えようとした死神は、一度咳き込むと大量の血を吐いた。
「一番奥の扉を開けるとバケツがある・・・そいつで水を汲んで・・・クソを流してから帰れ」
「貴様は追っ手なのか」
「ワシはただの・・・管理人だ」
「ただの管理人が、何故私を欺いた」
「ポケットティッシュってヤツは曲者でな・・・拭くときは破れやすいクセに・・・うう、ゴホ・・・流しても水に溶け辛いんだ」
「だからなんだ」
私の問いに、老管理人はニヤリと笑うだけだった。
私は老管理人をゴロリと投げ出し、立ち上がった。水なんて流す気はサラサラないところを、虫の息の老管理人に見せ付けたかった。
公衆便所から踏み出す刹那、老管理人の最後の言葉を背中で聞いたような気がしたが、不意に吹きつけた風に流されて、聞き取れなかった。
「オチが無いとは、つまりこういうことさ」
雪が横面を叩き、襟元から喉を切り裂くかのように滑り込んでくる。
私はコートの襟を立て、歩き出した。
このまま追われていてはキリが無い。
ここは一つ、闇医者の「ナマナカ」の元を訪れてみようと思った。
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